2024年7月31日水曜日

「源氏物語を楽しむ会」72回 2024年7月

 「源氏物語を楽しむ会」の72回目の勉強会をしました。

今回は「蛍」の巻を終えて、次の「常夏」の巻まで頑張って読みました。

「蛍」ではさまざまな人物が、次から次へと登場しました。

主人公の光源氏、養女の玉鬘、正妻格の紫の上、息子の夕霧、娘の明石の姫君、雲居雁、柏木、内大臣、弘徽殿の女御。

人間関係を把握するだけでも大変ですね。

そして常夏の巻では、暑い日には光源氏もリラックスしています。

氷水(ひみず)を口に含み、水飯(すいはん)を取ったりしています。

ただし平安時代の暑さ、というのはどのくらいの気温だったのでしょうか。

現代のように35度超え、ということはなかったでしょうね。

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読書会の後は、近くのイタリアンレストランでランチをしました。

みんなでシェアしていただきました。

生パスタ(豆入り)。これは味付けが良かったですね。


ピザはマルゲリータと、なんとか?

デザートもおいしそうでした。(私はパスしましたが)


フルーツのシャーベットとチョコレートケーキでした。

この会のある曜日は、私の大学の授業が午後からあったので、なかなかゆっくりできませんでしたが、ようやくその授業も終わったので、久しぶりにランチをご一緒したのでした。


2024年7月28日日曜日

多摩川へ早朝サイクリング

多摩川の上河原堰の写真を撮るために、早朝、家を出ました。

このところの暑さに、陽が昇ってからではダメなのです。

川は気持ちが良いですね。

左岸(東京側)から写しました。


対岸は川崎市です。

白くて丸いものは、よみうりランドの観覧車。

その右側にうっすらと見えるのは、雪のない富士山です。


対岸側の奥の方の建物が、上河原の堰です。

水の流れも素敵。

それにしても土手は遮るものがないので暑い。


このあたりは、ちょうど多摩川の水源から東京湾までの中間地点くらいの場所です。

あまりに暑くて、帰り道、コンビニで冷たい飲み物を買ってしまいました。


2024年7月27日土曜日

東京農業大学の博物館へ

世田谷区にある東京農業大学博物館「食と農の博物館」へ行ってきました。

以前は、自宅の近くからこの博物館のある世田谷通りを走るバスがあったのですが、そのバスは最近、一日朝夕の2便しか運行しなくなったようで、仕方なく電車とバスを乗り継いで出かけました。

下高井戸から東急世田谷線に乗って、上町で下車。ここはいつも「ぼろ市」で利用している駅です。

その駅の近くから世田谷通りまで歩き、バスに乗りました。博物館のある停留所は4つ先なので、普通なら歩いてしまいますが、あまりの猛暑のため、シルバーパスを利用。

「農大前」で下車しました。

開館まで時間があったので、近くを散歩しました。

馬事公苑。広大な敷地でした。


こちらは「けやき広場」。世田谷区民の憩いの場のようです。

とてもゆったりとした公園でした。

博物館前には巨大なにわとりた立っていました。こういうのあまり好きではないのです。


建物には様々な展示がありましたが、日本酒の展示は迫力がありました。ずらりと並んだ日本酒の瓶。


「百姓貴族」という漫画の原画展もありました。荒川弘さんという漫画家のリアルな生活を描いた漫画でした。

昔の農家の様子なども見ましたが、ここにも鶏がたくさん並んでいて、好きではないので直視できませんでした。

「美しき土壌の世界」を覗いてみましたが、土により、こんなに差があるのかと思いました。沖積層と洪積層の違いも、なんとなく分かったような。

1階のフロアには図書も置いてあり、農業関係の子供向け絵本を見てきました。

今まで農業とは無縁の生活でしたが、小泉次大夫の用水を調べるうちに、昔の農業を調べることになりました。農業は厳しい生活だったとは思いますが、とはいえ、なかなか実感が湧いてきません。せめて子供向きの絵本で学習しようと思いました。

博物館の向かいには大学があり、生協では面白い食品を販売しているようでしたが、あまりの暑さに負けて、そちらはパスしました。


その後は、下高井戸の果物屋さんへ。ここのかき氷がおいしいと評判だったので寄ってみました。

マンゴかき氷というのを注文しましたが、でかい。

かき氷と言うよりもシャーベット状のマンゴでした。多すぎて、途中で飽きてしまいました。

かき氷はやはり小豆が一番だと思いました。


2024年7月25日木曜日

「川の講演会」@都庁

 都庁で開催されたイベントに参加してきました。


この広場でプロジェクションマッピングがあるようです。

私が参加したのは「東京の川を考えるシンポジウム 2024」でした。

7月は河川愛護月間だそうです。

最初に小池知事のビデオメッセージがありました。

その後に、身近な東京の川についての講演がありました。

東京には107の河川があり、全長は858㎞だそうです。

最初は某大学教授の講演でしたが、これがイマイチで、話があちこちに飛んで、何をメインに話したいのか分かりませんでした。

次はNHKのニュース番組で天気予報をされている気象予報士・防災士の片山美紀さんの講演でした。

タイトルは「川と安全に付き合うために 増加する気象災害から命を守る方法」

とても話し方が上手で、パワポも分かりやすいし、役に立ちました。

とくにこれから気をつけなければならないのは、ゲリラ豪雨、線状降水帯、そして台風だそうです。

天気予報で「特別警戒」という用語が使われたときは、「もう手遅れ」という意味だそうで、そういう状況になる前に対策をしないとダメなのだとか。

実は都庁に出かける前にものすごい雷雨があり、電車がちゃんと走るのか心配になるくらいの雨でした。

2024年7月21日日曜日

三度目の宿河原堰

川崎市多摩区にある二ヶ領用水宿河原の堰にまた行ってきました。

このところ、ものすごい暑さが続いているので、早朝から出かけました。

この堰には、1回目に行ったときはJR南武線宿河原駅南口から、二ヶ領用水に沿って歩いて行きました。そのときのブログはこちら▼。2023年1月でした。

2回目の時は宿河原駅北口から行きましたが、結果的に大回りになってしまいました。そのときのブログはこちら▼。2023年10月でした。

今回は、暑さをしのぐため、少しでも歩く距離を短くしようと思い、登戸駅から歩きましたが、なんということか、道を間違えて、結局また大回りしてしまいました。


それでも道を間違えたおかげで南武線の船島踏切を渡ることができました。


こちらは1回目も通った船島橋。かなりボロボロですね。それでも道を間違えたおかげで、また船島橋を通過することができました。懐かしかったですね。


橋の上から眺めた風景はちょっと涼しそうでした。


橋の反対側です。
次回、訪れるときには、きれいに整備されているでしょうか。


二ヶ領用水を眺めながら、こんな道を歩きました。木陰は涼しいですね。


この橋は何橋だったかしら? 新船島橋だったかもしれません。
レンガ造りでかっこいい橋です。

橋の近くに、このような案内板がありました。


≪二ヶ領用水≫
多摩川の水を取入れ、私たちの祖先が汗水たらす苦労と、10数年の歳月を費やし、稲毛領と川崎領に至る二ヶ領に渡る農業かんがい用の水路として、慶長16年(1611)につくられたものです。別名「次太夫堀」とも呼び、工事を指揮、監督した小泉次大夫の功績を今に残しています。その後、享保9(1724)年に田中休愚がおこなった大改修工事を経て、今日の用水路の基礎が完成した。
 この用水は、多摩川流域では灌漑面積の最も大きな用水で、最盛期で2,880町歩(約2,850㏊)にも及びました。そして農業用水及び飲料用水の他、工業用水としても利用され、日常生活などに欠くことのできない大切な水路として管理されてきました。
 私たちも、このように歴史的に由緒ある二ヶ領用水を子孫に末永く引き継いでいきたいものです。

こちらは川崎までの地図です。橋名が書かれていました。


また堰についてはこのような説明がありました。

【宿河原堰取水口】

 二ヶ領用水は、多摩川から二ヵ所で水を取り入れています。その一つがこの「宿河原取水口」とここから3.5㎞ほど上流の「上河原堰取水口」です。

 当初の二ヶ領用水宿河原堀は、多摩川が蛇行していたことにより、現在の取水口から約800メートル下流にある八幡下橋付近(多摩区宿河原6丁目)にありました。後に、現在の取水口付近に、竹製の蛇籠で築造された二ヶ領宿河原堰が設置されました。昭和24年(1949)には、神奈川県がコンクリート製の堰に改築しました。その後、昭和49年(1974)の台風16号の影響により、多摩川の激流が二ヶ領宿河原堰の固定堰に妨げられ、狛江市の堤防が決壊しました。現在の堰は、この狛江水害を機に、建設省と川崎市の共同により治水安全の向上と水辺環境などの配慮のため、平成11年(1999)に改築されました。

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ここを渡れば、もう宿河原堰はすぐそこです。

サイクリングのお兄さん達が、汗だくになって「せせらぎ館」で一休みしていました。お疲れ様です。

私は中の建物に入って見学しました。

江戸時代の村々に流れた毛細血管のような用水路。

スタッフの方ともおしゃべりができました。


この写真のように、堰の上には二つのボックスのようなものがあるのですが、中がどうなっているのか、気になっていたのです。
この装置の中には機械装置があり、多摩川の水面の高さを調整するのだそうです。せせらぎ館の隣には国交省の職員がいて、メーターのようなものを監視していて、水を取り入れたり、流したりしているそうです。もしできたら、中を見学してみたいものですね。今年の6月の大雨の時には、装置が動いて、活躍したそうです。

また農業用水の使い方(?)についても、千葉県の農地で体験されたことを話していただきました。私は農業用水についてはまるで実体験がなく、イメージが湧かなかったのですが、お話を聞いて、少しは想像ができるようになりました。やはり本物の田圃を見ないといけませんね。

それと今回は、土手でこれまで気づかなかったものに出会いました。土木学会の案内と、表彰です。二ヶ領用水の歴史、土木学会の表彰、50年前の台風で家が流されてしまった様子が紹介されていました。


「二ヶ領用水宿河原堰のあゆみ」はこのように書かれていました。
 二ヶ領用水開削に着手したのは、江戸時代以前の1597年のことで、徳川家康が地域の農業生産を高めるために小泉次大夫に命じ、1611年に完成しました。
 この二ヶ領用水に多摩川の水を取入れ易くするために、宿河原に堰が設けられましたが、当時は竹製の蛇籠で作られていました」


 1974年(昭和49年)9月、台風16号による出水により狛江市側の堤防が決壊し、民家19軒が流されるという大きな災害が発生しました。

1994年(平成6年)から川崎市と建設省(当時)の共同により治水安全の向上と水辺環境などにも配慮した改築工事に着手し、1999年(平成11年)3月に現在の宿河原堰が完成しました。

と書かれていました。

何回来ても、毎回、いろいろな発見があるものですね。

外に設置されていた「二ヶ領用水宿河原樋管」という装置。こういうもの、よく分からないのですが、見るのは好きですね。


これが多摩川からの取水口のようでした。

その後は、多摩川の土手を歩いて登戸まで向かいました。向こうに見えるのは小田急線の鉄橋です。


炎天下でしたので、疲れないようにソロリソロリと歩きました。

そしてよく頑張って歩いたご褒美は、狛江駅近くのお店で、黒蜜きなこのかき氷。

食べ終わったら、身体が冷え冷えになってしまいました。

暑い夏に頑張って出かけた甲斐がありました。

小泉次大夫に惹かれて、三回も堰に来てしまったのでした。



2024年7月14日日曜日

二ヶ領用水ふたたび 平間~鹿島田 鳥居探し?

もうひと月以上も前のことになってしまいましたが、川崎市の南武線平間駅から鹿島田駅まで歩いてきました。そのときの記録が中途半端だったので、書き加えてみました。

当初はもっと南の方まで歩きたかったのですが、暑いのと、方向音痴気味になってしまったので、途中で諦めて戻ってきたのでした。

その日のおおよそのルートです。

JR南武線の平間駅で下車、その後は二ヶ領用水を目指して歩き、府中街道のバス停を越えました。

「平間駅入口」というバス停でした。


この先に二ヶ領用水が通っています。
前回も通過した「大鹿橋」でした。


季節が変わると、風景も変わって見えますね。


でもこの魚の模様を見て、思い出しました。

ここから先、両側は普通の住宅です。歩きやすい散歩道でした。

「さくら橋」


「長寿橋」


あちこちに紫陽花が咲いていて、きれいなところです。


このマンホール、椿の花が真っ赤で目立っていました。珍しいマンホールを求めて歩く人もいるようですね。

この橋は、前回もびっくりした「朱印橋」。ピカピカです。


その隣にはボロボロの名無し橋。
なんと「犬の飼い主へ 通行禁止」という張り紙がありました。
犬の散歩中に橋が壊れても知らんよ、ということでしょうか。


ほんとうにボロボロの橋でした。
渡るのも怖いですよね。


錆びついていました。事故があったら誰が責任を負うのでしょう?
このあたりの自治体は何をしているのでしょうね。あるいは住民の意識の問題でしょうか?


しばらく行くと、昔風の低い橋がありました。名前はわかりませんでした。


「鹿島田中町」というバス停。
行き先が高津駅ということは、かなり長距離ですね。


こちらは前回も通過した「鹿島田橋」です。


向こう側に二ヶ領用水の続きが見えますが、残念ながら行き止まりです。


前回もこの標識にがっくりしましたが、いつまで行き止まりなのでしょうか。


しかたなく大回りして道路を歩いていたら、「川崎堀踏切」がありました。
ここで南武線を渡るわけです。


ここにも低い橋がありました。こういう低い橋を見ると、なんとなくホッとします。


平間浄水場近くの堀です。


きれいに整備されています。


浄水場に向かって歩きました。


誰も歩いていないので、ちょっと不安になりました。

こちらは「わが国最初の工業用水」の場所です。
農業用水だった二ヶ領用水を工業用に使った訳ですね。


この周囲をぐるぐると歩き回りました。

上の看板に「鳥居」と書かれていたので、私はいわゆる神社の鳥居を探していたのです。
ところがそれは大きな勘違いだと、後になって気づきました。

【追加部分】あまりにマニアックなものなので、あえて写真は載せませんでした。またピンボケでしたので、写真は削除してしまいましたが、2枚のみ残っていたので、ここにアップしておきます。

それはこのT字のような形のコンクリート?の支え棒のようなものです。

まずはネットの外側から写したもの。草がぼうぼうで、鳥居だとは分かりません。


こちらはネットの隙間から写したもの。


これが「鳥居」だとは誰も分かりませんよね。上半分だけが見えていました。
私は半信半疑でした。

それで鳥居の追求は諦めて、かつての六郷用水跡を歩いたのでした。


このあたり、きれいに整備されています。


昔の六郷用水やその分水は、このようにあちこちに広がっていました。


紫陽花の道をのんびり歩きました。


鳥居探しは諦めて、鹿島田駅のビルでちょっと休憩。

その後は、駅前の高級マンションの際を歩いて、下平間のほうへ向かいました。

ここまで来ると二ヶ領用水の跡はまるで分かりませんでした。たぶん、この小さな川が水路と関係あるのだろうと思いました。


しばらく歩くと、称名寺です。


ここは赤穂浪士ゆかりの寺だそうです。



ここは赤穂浪士ゆかりの寺だそうです。


この後はまた歩いて鹿島田駅へ。
なんだかんだで13000歩程度歩いたようです。

二ヶ領用水を扱った書籍やブログなどを見ても、普通は平間浄水場のところで終了しています。

地元の人なら、この先も追いかけることができるでしょうが、私にとってはこの地域はまるで土地勘がないので、歩くのも一苦労。

いったんここで終了したいと思います。

前回の二ヶ領用水 鹿島田編はこちら▼

昨年2023年10月に歩いた二ヶ領用水 鹿島田編はこちら▼

なんだか締まりのないブログになりました。やはり実行した直後に書かないと、記憶が薄れてぼんやりとしてきますね。

二ヶ領用水にお付き合いいただき、ありがとうございました。