日にちがだいぶ前後していますが、今回の記録は3月初旬のできごとです。
(前回のブログ▼とは別の日です。)
この日も武蔵小金井市内にある平右衛門ゆかりの場所を探索しました。
江戸時代は、このあたり一帯は武蔵野国といわれていて、新田開発が行われていた場所です。
かつては府中の押立村で活躍していた平右衛門さんですが、彼の守備範囲もどんどんと広がり、今や「武蔵野新田世話役」というお役目もいただくようになりました。
今回、出かけた小金井市は、府中からだと真北の方向になります。
そこに彼は「関野新田」のために陣屋を造りました。彼の手下の高木三郎兵衛という人が常駐していたようです。
その陣屋跡を探しに出かけました。
まずはJR中央線の武蔵小金井駅まで。
北口からバスに乗り、玉川上水が流れる小金井橋まで行きました。
橋のたもとには、名勝小金井桜のいわれや、写真などが掲げられています。
上水に沿って少し東に歩きました。
北側には小金井公園が広がっています。そこには「平右衛門桜」が植えられていました。
桜はまだなので、次の機会にお花見をすることにして、今回のメインは陣屋探しです。
このあたり、いまや住宅街です。そしてスシローの近くに陣屋跡を見つけました。といっても解説版が立っているだけでした。普通の人は気がつかないでしょうね。
「幕府は、享保7年(1722)から本格的に武蔵野の新田開発に着手し、南北武蔵野82ヵ所に及ぶ大規模な開発事業を行いました。しかし度重なる凶作により開発が困難になったため、元文四年(1739)、寺社奉行大岡越前守は、押立村名主川崎平右衛門を武蔵野新田世話役に登用しました。この開発を指導するための陣屋が南武蔵野の関野新田と北武蔵野の三角原(元鶴ヶ島市)に置かれました。
関野新田の陣屋には平右衛門の手代高木三郎兵衛が常駐し、同新田名主関勘左衛門らと新田農民の世話に当りました。
当時は北側に関野用水が流れ、三方に土塁が置かれ、内側には陣屋や井戸があったといわれています」
そこからもう少し東に歩きました。目標は真蔵院というお寺です。
なかなか立派なお寺でした。
発起人は、廻他新田、貫井新田、是政新田、小金井新田、田無新田の人々でした。
多くの人たちから親しまれていたことが分かりますね。
「川崎平右衛門定孝は やせた土地で井戸を掘らなければ水がない。武蔵野新田村に畑養い料という制度を発案、導入して新田の百姓を大いに救った。この制度は多少形を変えて、明治2年まで130年もの間続いた」と書かれていました。
お寺の敷地の外側には、小金井市の案内板もありました。
その後は、東小金井の南側にある栗林跡を訪問しようと思いましたが、バスが通りそうもないので、仕方なく道路をひたすら歩きました。法政大学がありましたね。
道路を歩いていると、こんなものを見つけました。さすがに桜の小金井市です。
そしてまた歩いて、今度は中央線の南側へ。
栗山公園という所を通過。児童公園のようなところでした。
Googleマップをたよりに栗林跡を探しました。
ここにも案内板がありました。どうして栗林があるかというと、当時の八代将軍吉宗が栗好きだったそうです。そのために栗を植えたのでした。将軍に献上するのは、名誉ではありますが、気疲れも大きかったのではないでしょうか。
ということで平右衛門さんゆかりの場所を歩きました。
帰りは中央線で戻ろうかと思いましたが、今まで一度も乗ったことがない西武多摩川線を利用してみようと思いました。
新小金井の駅前広場です。
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