2014年5月18日日曜日

富士山信仰 3 ~古代・中世編~

先日、市民カレッジ「富士山信仰」の3回目の講義を受けました。

この講座は座学、実地踏査の両方を交互にしていますが、今回は座学。
講師のお話をちょっとまとめてみました。
(なお、このサイトは「おもむくままに」の書き手が、本人の備忘録として感想的に書いているものです。講師の先生の講義そのものとはズレがあるかもしれませんが、その点、ご了承ください。)


~まずは古代の富士山信仰~
このころは、富士山は素朴な信仰の対象としての山でした。

◆地元の人たちに豊かな水を提供してくれる恵みの山。
◆都から遠く離れたところにある遥かなる山。
◆いつも雪に覆われていて、噴火していて人を寄せ付けない危険な山。
 当時の人にとっては、現在の桜島のように年中、噴火している山というイメージだったようです。
 奈良~江戸時代中期までに富士山は16回噴火していました。
◆そして、その富士山を「浅間大神(あさまのおおかみ)」と見立て、国家により噴火を鎮めることを期待して、富士山に神社を作りました。
◆聖徳太子は598年に富士山登山をしたという伝説があるそうです。馬に乗って富士山を飛び越え、信濃に行き、3日で都へ戻ったそうですが、ほんとかしら?
◆「万葉集」で有名な山辺赤人の歌
 「田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ・・・」は現代人からすると優雅なイメージですが、当時の人にとっては人を寄せつけない厳しい山というイメージだったかもしれません。

◆浅間神社の歴史というのは、もともとは山のどこかに神社を作っていましたが、その後、山のふもとに移り、そしてそれからまた里へ移動して定着した、というのが一般的なようです。

「富士山本宮浅間(ほんぐうせんげん)大社」
もとは紀元前につくられた神社だとか?


「山宮浅間(やまみやせんげん)神社」


~次は、中世の富士山信仰についての説明~

◆鎌倉幕府が開かれてから東海道の往来が盛んになり、それにしたがって都の人たちにも富士山は身近な存在の山となった。
◆仰ぎ見る山(遥拝)から修行の山へと転換。
◆実際に登山したお坊さんがいた。
◆室町時代から、一般の人々も信仰登山をした。
 それにしたがって、登山道が整備され、登山口には宿泊施設ができるようになった。
 神社の神主たちは山のガイドの役割もした。
◆北コース(富士吉田)と南コース(富士宮)
◆神道と仏教の融合。

「富士参詣曼陀羅図」

頂上には薬師如来、阿弥陀如来、大日如来の3人がいますね。
下のほうから上って行きます。

~まとめ~

富士山には、古くは浅間大神という噴火を鎮火させる神様と、木花咲耶姫(海彦・山彦の母)という美しいイメージがあったが、それが融合していました。畏怖と美の対象でした。

その後、密教、浄土教などが入ってきて、神仏習合という信仰になった。そして時代が下るにしたがって、実際に富士山に登山する一般の人々が増えて行った。

ということでしょうか。

~感想~

私は歴史のお話は好きなほうですが、神道や仏教の話となると良く分からず、なんだか雲をつかむような感じがしてしまいます。

それでも、現在の私たちが富士山に持っている美や雄大といったイメージと、古の人たちが感じていた畏怖のイメージには差異があるということだけは分かりました。

昔の人たちにとって、数百キロも離れた富士山は、今の私たちにとっては火星や金星くらい離れたものとして想像していたのかもしれませんね。

この次は近世(江戸時代)の富士山信仰のお話になります。

*****

この日の装い。

講座に出かけるときは、なるべく地味な格好で出かけています。
あまりチャラチャラしていると思われたくないので・・・・。

お父さんの着るような青い紬。
下北沢のリサイクル着物屋さんで、店員さんに勧められて買ったものです。たしか定価の7割引きという大幅値下げ品でしたが、青い色の着物は好きですね。


帯は、先日の骨董市で、おなじみのおじさんから勧められて買ったもの。
淡い水色の涼しそうな染めの帯です。
見えないところにシミがうっすらとあるのですが、全然、気にしません。
かなり長い帯でした。

お太鼓には大きなお花(?)が描かれていましたが、何の花なのかしら。
花というよりも木という感じですね。


それに先日、「Otesiho」の展示会▼で買った帯締め。
京都の「きねや」さんというお店のものでしたが、色も涼しそうで格安だったので、後先考えずに買ってしまったものです。ぼかしが入っています。
これからも役立ちそうですね。

同系色でまとめてみましたが、こういうときの帯揚げをどうしたらいいのか、よく分からないのです。
水色と薄いピンクの模様のにしましたが、難しいですね。



0 件のコメント: