2023年11月18日土曜日

【次太夫堀 六郷用水 11】丸子橋〜下丸子

私の用水歩きも、いよいよメイン段階に入りました。

これまで小泉次大夫さんが関わった用水のうち、川崎市内を流れる「ニケ領用水」を歩いてきました。そちらはほぼ全区間歩いたので、これからはそのニケ領用水と「双子の用水」とも呼ばれる六郷用水を歩くことにします。

六郷用水は、多摩川を水源として、和泉村、世田谷領、六郷領に渡る23キロを潤しました。

まず最初に歩いたのは、こちらのコースです。

ニヶ領用水の方は、川崎市が全面的にバックアップしていて、資料もまとまっているのですが、六郷用水の方は、いろいろな自治体をまたがっているせいか、なかなか統一されていません。用水の保護や、緑化に力を入れているところもあれば、ほったらかしのような状態のところもあります。また六郷用水の地域は工業化が進み、暗渠化したりしてなかなかその足跡の全貌が見えてきません。

とはいえ、東京人としては、江戸の人々の生活を潤してくれた六郷用水を調べたいので、これからは六郷用水に関わって行く予定です。

まず最初は大田区から始めることにしました。

こちらは着物のイベントでもお世話になった「せせらぎ館」がある多摩川駅です。東急線がいろいろ交差しているので、乗り換えが間違えやすい駅です。


ここから前回も通った丸子橋に向かいました。
この橋は多摩川に架かる大きな橋です。長さは400メートルあるそうです。


車がビュンビュン走っている場所なので、橋名を写すのも一苦労でした。


そのすぐ近くには、沼部橋がありました。


こちらは全長15メートルの小さな橋でした。


両方の橋を一度に見ると、こんな感じです。
手前が沼部橋、奥の青い橋が丸子橋です。重なって見えます。

沼部橋の上で下を眺めていると、下に降りる階段がありました。


恐る恐る降りてみると、そこにはトンネルがありました。


このトンネルの上は中原街道が走っています。

そして「六郷用水の跡」の石碑がすぐに見えました。こんな簡単に見つかってしまうなんて、驚きでした。


六郷用水の流路図もありました。

「六郷用水は、多摩川の水を和泉村(現在の狛江市和泉)で取り入れて、世田谷を経て大田区に流れています。この間の大蔵村で用水の水量を調整し、余分な水を野川を通して多摩川に落とすために、洗堰が設けられていました。本流は光明寺下の矢口村の南北引き分けで南堀(蒲田、六郷、羽田方面)と北堀(池上、大森方面)とに分かれました。それぞれの村では灌漑用水として利用されました。」

と書かれていました。

全長約30キロ、灌漑面積は約1500ヘクタールだそうです。

この用水は、1945年(昭和20年)に廃止されて、埋め立てられました。

ということで、この道をまっすぐ南に歩いていくことにしました。

とても気持ちの良い緑道でした。

近くの小学生たちの作文もありました。


「東京の名湧水57選」になっています。

鯉も泳いでいました。


カップルも楽しそうに歩いていましたね。


この青い屋根瓦のお寺の名前は何だったかしら。

近くには、昔の水車もありました。

これは「ジャバラ」と呼ばれるもので、足踏み式の水車でした。かつては六郷用水流域の水田で、早春や干ばつの時に水が少なくなると、羽根を足で踏んで回転させて、田んぼに水を揚げていたのでした。


この水車があったのは、東光院というお寺の近くの用水でした。


このあたりから用水の巾が狭くなってきました。


こちらは大きな石から水が溢れていましたが、何に使われたのかよく分かりません。かつては何かに利用されていたのでしょうが、今はオブジェのようでした。


沼部駅の近くです。上を横須賀線が走っていました。

しばらくは用水が見えませんでしたが、鑑蔵院の近くでまた復活してきました。このお寺はとても広大な敷地のお寺でした。


こちらは昔の石塚橋の跡です。


この近くの用水には小さな橋がかかっていたり、

鴨が泳いでいたり、


鯉が泳いでいたり、


湧水があったり、

歩いているだけで楽しいところでした。

こんな感じで、のんびりと歩けました。


このあたりまでは楽に歩けましたが、このお寺の先は大変でした。かなり急な坂道になりました。


このあたりは「女堀」と言われていて、高低差に加え硬い地盤があり、堀の開削工事は難航したそうです。作業には女性を動員して、男女が力を合わせて能率をあげたことから「女堀」と呼ばれています。


また小泉次大夫の夢に女神が現れて、丘を切り崩さずに迂回して工事を勧めたことから、女堀と呼ばれるようになったという説もあります。

一苦労しましたが、その後の道はきれいなマンションになっていました。
そこにはかつての六郷用水の跡がありました。

歩道はきれいに整備されていました。


ここにも六郷用水の説明がありました。

「開削には、駿河国(静岡県)の富士山麓で治水、利水の技術にたけていた徳川家康の家臣・小泉次大夫を工事代官に任命します。
多摩川の左岸に世田谷領を経由し、六郷領(大田区平野部)を灌漑する六郷用水、右岸に稲毛領と川崎領を灌漑する二ヶ領用水が、ともに1611年(慶長16年)に完成します。このとき、次太夫はすでに70歳を過ぎていました。
六郷用水は「次太夫堀」「おなぼり」とも呼ばれてきました。「おなぼり」とは、難工事のため女性も労働力とした工事に使われた、女性で活気をつけたなどの言い伝えがあります。
この道に沿って、「城南の米倉」を支えた恵みの水であったこと、かつて鬱蒼と茂っていた屋敷林などに思いを馳せてみましょう」


少し歩くと、鵜の木松山公園という場所になりました。

ここには横穴式のお墓がありました。


こちらがそのお墓です。


公園の原っぱでは、小さな保育園児たちが遊んでいました。


鵜の木松山公園には入口がいくつかあるようで、ちょっと出口を間違えて、ウロウロしてしましました。


その結果、こちらのコンビニでトイレ休憩となりました。


この公園の際には河原坂というのがあり、ここを登ろうと思いましたが、疲れてしまったので、仕方なく用水歩きは止めて、ランチの場所を探すことにしました。


この近くには六郷用水の「南北引き分け」という場所があるのですが、コンビニに寄ったおかげでその場所が分からなくなってしまいました。
また次回、鵜の木駅からやり直しです。

グーグルで見つけたクレープのお店は閉店していて、どんどんと南下して下丸子まで歩き、コメダに入ることにしました。

まだ昼前だったので、席が空いていて助かりました。

しばし休憩して、また東急電車で多摩川駅まで戻りました。

そして大田区せせらぎ館に寄って、六郷用水関係の図書を探して、しばし読書タイム。

東急沿線をうろうろした半日でした。

******や

「一日一句」

大田区で 江戸の用水 歩く秋


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