実はこの講演会に参加すると、入場券が無料でいただける、というのがこの会のミソなのです。
こちらが、講演会終了後に受け取った無料鑑賞券のチケット。
私は西洋洋画についてはほとんど知識がなく、バルテュスさんの絵もなんとなく知っているくらいで特にファンでもないのですが、奥様の節子さんの着物姿や豪勢なお住まいをよく雑誌などで拝見していたので、それで興味がありました。
学芸員さんから伺ったお話を少しまとめてみました。
バルテュスという人は、本名はバルタザール・クロソフスキーという長い名前で、1908年2月29日(つまりうるう年のうるう日)に、ポーランド人のお父さんとユダヤ系ドイツ人のお母さんから生まれました。両親とも画家で、お兄さんも画家という一家だったそうです。
彼は長い間、パリに住んでいました。
かなり早熟な少年だったようで、11歳の時に、「ミツ」という猫と過ごした日々の画集を制作しました。
この「ミツ」というのは、日本語の「光」の音読みでもあり、そのころからバルテュスは、日本や中国の文化に興味を持っていたそうです。
この画集の出版にあたっては、彼の母親がリルケと愛人関係にあったので、それで出版に至ったそうです。
バルテュスは絵画だけではなく、演劇の舞台デザインなども手掛けたそうで、多くの才能の持ち主だったのですね。
26歳の時に、初めて個展を開きました。
ピカソからも「20世紀最後の巨匠」と、言われたほどだそうです。
30歳の時、「夢見るテレーズ」を制作しました。
この絵のモデルは、隣に住んでいた少女だそうですが、図の構成(斜めの線、横の線など)や、絵の質感が非常に優れているということでした。
ここにも猫が描かれていますね。
その後、45歳の時に、フランスの片田舎のシャシーというところに移り、ここでは風景画をたくさん描いたそうです。
53歳の時に今度はイタリアのローマに移り、ここではアカデミー・ド・フランスの館長さんを務めました。
その後、パリでの日本古美術展を準備するために来日して、そこで節子さんと出会いました。
彼女と結婚後は、節子夫人をモデルにした「朱色の机と日本の女」を制作しました。
この絵は西洋の遠近法とはまるで逆の方法を使用しているそうで(畳や机の幅が前後で同じ)、そこがヨーロッパの人たちには新鮮に映ったとのことでした。
そして69歳の時、スイスのロシニエールというところで、お城のようなグラン・シャレに居をかまえました。
ここのアトリエは、大きな窓があり、自然の光をうまく使っていたそうです。
今回の美術展では、スイスのアトリエからいろいろなものを持ち込み、本物と同じように再現してあるそうです。
学芸員さんの解説を聴いた後に、客席からの質問がありました。
私もなんといっても、「夢見るテレーズ」の白いパンツが気になっていましたが、そこをずばりと直球で質問した人がいらっしゃいました。
つまりバルテュスは少女趣味(ロリコン)ではなかったのか、という指摘でした。
これに対して、学芸員さんはあくまでも「バルテュスは少女というのが一番完璧で美しいと感じていた」というようにお行儀のよい答えをしていましたが、本当はどうだったのかしらね。
私はこの画家の絵が美的かどうか判断できませんね。
というのも、「朱色の机と日本の女」の女性の頭に巻いた鉢巻のようなものがよく分からないし、腰ひもがリボンのようですね。
奥様の節子さんは、「日本の女性はこういう姿はしないわよ」とかおっしゃらなかったのかしら。
「夢見るテレーズ」の少女の触ってみたくなるようなすべすべとした足、ふわふわとした猫の毛、「朱色の机と日本の女」の何回も絵具をぬり重ねた白い床などの描き方は、すごいなと思いました。
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この日は、大雨で肌寒かったので、さすがに着物は止めました。
多分、今年になって2回目のスカート姿。
もう20年近くも着ている合皮のジャケットです。
ちょっとレトロな縁にしてみました。
2 件のコメント:
まぁ、この「日本の女」はないわよね。私がモデルだったら絶対抗議するわ(笑)
実は、この講演会、私も申し込んでいたんです。でも、雨だったので出かけるのがおっくになりました。
午前中ヨガがあったのですが、ずぶぬれになって帰ってきてまた出かける気分になれませんでした。軟弱ものめ(苦笑)
作品は興味深いので、美術館には行ってみようかしら。
マサさんも、申し込みをされていたんですか。
そういえば、いつもはこの講演会の時は満員御礼のホールですが、今回は豪雨のせいか、少しは空席がありました。
でも帰る頃には雨が上がっていて、助かりましたよ。
今度の日曜美術館は、この美術館が話題じゃなかったかしら?
私はやはり日本画のほうが見ていて落ち着くわ。
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