気温が28度まで上昇してピカピカ天気だった日、多摩川をサイクリングしてきました。
京王多摩川駅に近い多摩川左岸の河原から、下流に向かってスタート。
向こうに見えるのは京王線の線路です。河原で子供たちが野球を楽しんでいました。
今回の目的地は4ヵ所ありました。
1.二ヶ領用水上河原堰堤
2.旧多摩水道橋の石碑
3.二ヶ領用水宿河原堰堤
4.多摩川決壊の石碑
どれもクリアーしてきました。
*******
まず1ですが、これは私のお散歩コース内にあります。
力強くほとばしる水の流れが素晴らしいですね。
今回は多摩川の左岸から眺めましたが、反対の川崎側の布田橋から眺めたこともあります。
「初代の多摩水道橋は道路と水道を供用する橋として、多摩川のこの地に昭和28年12月完成しました。以来、相模川の水を川崎市長沢の浄水場を経て都内に供給するための水管橋として、また東京都(狛江市)と川崎市(多摩区登戸)とを結ぶ「登戸の渡し」に替わる道路橋として重要な役割を担ってきました。
しかし近年の自動車の増加に伴い交通渋滞が慢性化してきました。そのため2車線を4車線に拡幅する新しい橋の建設を行うことにより、平成7年5月にその使命を終えました。なお橋に収納されていた直径1800mmの配水本管は新しい橋に引き継がれ、引き続き都内に水道水を供給しています。
多摩水道橋(初代)諸元 形式 単純中路ブラケットトラス橋
橋長 355.6m
支間長 31.95m+32.3m×9+31.95m
幅員構成 車道=6.00m 歩道=1.50m
車線 2車線
と書かれていました。
さて最後の4の「多摩川決壊の碑」ですが、ちょうどその対面にありました。
青い三角錐(ピラミッド型)の記念碑に、金色に輝く銘板が埋め込まれていました。そこには堤防決壊時の写真とともに「碑文」がしるされていました。
これは昭和49年(1974年)、今から50年前の9月1日、台風による大洪水で多摩川が決壊して、家が流された時の石碑です。
この話は「岸辺のアルバム」というドラマにもなって、多くの人の記憶に残りました。ただ、現在はそのようなことは知らない人が多いのか、この周辺には新築の家がたくさん建ち並んでいました。
「昭和49年(1974年)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流水川を中心とした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼ごろ、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の民家19棟を流失させる被害をもたらしました。
この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。
建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。
一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。
平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。
ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。
平成11年3月27日
建設省京浜工事事務所
狛江市」
また当時の航空写真も刻まれていました。(現在は錆びてしまっています)
これほど大きな水害になってしまったのは、宿河原の堰堤が、洪水の流れを阻止してしまったためだそうです。それで堰堤の固定部を爆破したということでした。
その後、被害に遭った人たちの裁判が始まり、終了した平成5年(1993年)年、建設省は「多摩川河道検討委員会」を設置し、二ヶ領宿河原堰の改築について関係機関や地元住民とともに堰の構造などについて検討をくり返しました。
そして平成11年(1999年)3月、従来の堰より40m下流に新しい堰が完成しました。現在の「二ヶ領宿河原堰」です。
もうだいぶ前のことですが、こうして記憶に残しておくことは大切ですね。
石碑の周りにはピンクの花が咲いていました。
これは桃の花かしら?
こちら側から見たのは初めてです。
白桃でしょうか、とても美しい花の咲く丘でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿