2025年6月25日水曜日

本多新田@国分寺

国分寺市内にある新田巡りの2回目です。

今回は市の北東部にある本多新田に向かいました。

出発はJR中央線の国分寺駅。

国分寺駅の南側にある殿ヶ谷戸庭園には何回か行きましたが、駅の北側に降りたのは初めて。

駅前は広場になっていました。

そこから商店街を北へ少し歩くと、本多地域に着きました。周囲をキョロキョロしていたら、すぐに祥應寺が見つかりました。とても広くて、立派なお寺でした。


祥應寺は黄檗宗という禅寺でした。

このお寺は、享保2年(1717)に、国分寺村の名主である本多三左衛門の子、多儀右衛門と仲右衛門いう兄弟が、廃寺となっていたお寺を再興させたものだそうです。そして享保11年に、ここに引っ越して、寺社奉行に許可を得た、と書かれていました。

その後、享保12年(1726)、野中新田の一部を譲り受けて、「本多新田」ができました。その際に、村人の菩提所としてお寺は現在の場所に移されたそうです。

参考:祥應寺 https://www.syououji.jp/

道路の脇には庚申塔がありました。


この塔は国分寺市内で最古の庚申塔で、元文5年(1740)に祥應寺の住職文鳳によって建立されました。正面の上部には太陽、月、三猿(見ざる、聞かさる、言わざる)が彫刻されています。庚申の夜には長寿を願い、寝ないで過ごす風習がありました。2024年に修復されました。

中に入ってみると、オシャレな建物があり、そこは「KAIPAN」▼という寺カフェでした。

美味しそうなメニューがあり、朝7時から営業しているようでしたが、まだ空腹ではなかったので、中に入るのはまたにしました。

そしてそのすぐ隣には八幡神社がありました。こちらもとても立派な社殿でした。新田にはお寺と神社がセットになっていることが分かりました。現代の私たちの感覚からすると、ちょっと違和感があるのですが、江戸時代にはそれが普通だったのでしょうね。

この神社は本多新田が開発されたことで、1734年、村の鎮守として創建されました。村の人たちはここでお祭りなどをしたのでしょうね。

境内をあちこち撮影しました。

とても小さな祠がありました。これは稲荷神社の神様のようでした。中には白い狐さんがいました。


こちらは力自慢の人が持ち上げたという石。
富士野栄治郎という人が持ち上げたと書かれていました。
「三拾貫」と書かれていましたので、およそ100キロということでしょうか。


こちらは本多地区の案内図です。
このあたりの地割りを見ると、きちんと長方形に区切られていて、これは新田の名残なのだろうと思いました。

その後、近くにある民俗資料室というところまで歩いてみました。普通の住宅街の中にありました。

ここは事前予約制の場所だったので、残念ながら入館できませんでした。入口の窓からは地図なども見えて面白そうだったのですが。


ドアの外側から写したお知らせ。


このまま帰るのはもったいないので、今度は本多図書館に行ってみました。ちょうど都議会選挙の投票日だったので、かなりの人がいました。

そこで地域資料を見つけて、コピーしてきました。

国分寺駅の北側は初めての訪問場所でしたが、とても発展していて、国分寺の古代イメージがちょっと変わった感じになりました。




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