2020年4月16日木曜日

映画「三島由紀夫VS東大全共闘」@日比谷

このblogの内容は、かなり前の話になります。

2020年3月下旬、まだコロナの非常事態宣言は出ていなかった頃のことです。
都心にお出かけするのは、ちょっとはばかれるような雰囲気の頃でしたが、どうしても見たい映画があったので、勇気を出して、有楽町まで出かけました。

半襟用に切った手拭いを折りたたんだマスク姿で出かけました。

見たかったのは「三島由紀夫と東大全共闘 50年目の真実」です。
日比谷で上映しているというので、空いていそうな時間帯の朝一番に行きました。


             (映画のサイトより借用しました)

日比谷で映画を見るなんて、何年ぶりだったでしょう。
昔は、この辺りにはスカラ座やみゆき座という映画館がありましたね。
それでどこの映画館に行くのか、場所があやふやで、最初に行ってみたのが、こちら。


でもここでは三島の映画は上映されていませんでした。
若い案内のお姉さんに「全共闘の映画はどこで上映していますか?」と尋ねたのですが、
「ゼンキョートー?」という感じで、ポカンとされてしまいました。
そうですよね、20代くらいの人には、全共闘と言っても通じないのは仕方ありませんね。
「いや、三島由紀夫の映画です」と言うと、
「向かいのビルです」と教えてもらいました。
それがこちら。


ところが、「ここは映画館ではありませんよ」と言われて次のビルへ。
ここは劇場だったのですね。
ようやくこちらの「TOHOシャンテ」に到着しました。


ああ、お上りさんは大変です。
チケットを買って、中に入りました。


平日の朝一番の上映の割には、かなりお客さんがいましたね。
私は隣に他人が座っているのが嫌なので、一番隅の通路側の席を選びましたが、隣は空席でホッとしました。
やはり私くらいの年配のおじさんが多かったようですが、この映画の時代にはまだ生まれていない若者の姿もチラホラ見かけました。

これは1969年、東大駒場校舎で行われた東大全共闘と、当時の有名作家であった三島由紀夫の討論会の実録映画です。
よくそんなフィルムが残っていたものだ、というのが一番の驚きでした。

その頃は、どの大学でも全共闘運動が盛んでしたが、中でも日大全共闘と東大全共闘が断然、有名な存在でした。
東大全共闘は東大医学部のインターン問題から始まり、大学側と対立するようになりました。
この年の1月18-19日には安田講堂事件が起きました。
そして5月13日に、この討論会が駒場校舎で開かれました。
そこには1000人もの学生が集合したそうです。

当時は全共闘の嵐が吹き荒れていて、学生はとても勢いがありました。
「自己否定」「大学解体」を合言葉にしていました。
世の中を変えるのだ、という意気込みがあったと思います。
そういうところへ、三島由紀夫は単身、乗り込んでいくわけですね。
彼自身が東大法学部卒業でしたから、いわば後輩との勝負だったわけです。

この映画に登場するのは、当時の東大全共闘のメンバーたち、「楯の会」という三島由紀夫を崇拝する右翼の人たち、また瀬戸内寂聴などの知識人たちなどでした。
その人たちが、当時のことを振り返りつつ、討論会の実録場面が進行します。
映画の構成は、討論会の録画の他に、当時の社会ニュース、そして現在のインタビューが織り込まれていました。
一種のドキュメンタリー映画とでもいうのでしょうか。

この討論会の後、どうなったでしょうか。
三島由紀夫はこの討論会の1年半後に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をしました。
全共闘運動は、それまで心情シンパであった一般学生と離れていったところもあり、セクトに分裂していき、過激化する団体もありました。

いずれにせよ、50年という歴史の重みを感じました。
「時は流れてゆく」のです。
私も同時代を生きた人間として、とても興味深く鑑賞しました。

映画を見ていると、あの頃は三島も学生も、みんな煙草を吸っていました。
講堂内は、煙がモクモクで、今ならありえない光景が続きました。
また女子学生は一人も登場しませんでした。
これも今なら信じられないですね。

そして「言葉の重み」がとても強く感じられました。
学生たちの言う「他人との関係性」という言葉はちょっと抽象的で分かりにくいところもありましたが、そんな学生たちの青くさい哲学的質問に対して、三島由紀夫は誠実に対応していました。

全共闘のメンバーに、芥正彦という人(現在も舞踏家として活動されているようです)が登場していましたが、彼は1歳くらいの赤ちゃんをだっこしながら三島に戦いを挑んでいました。
それがとても印象的でした。
騒然とした討論会の中で、にこにことしていて、ちっとも泣かない赤ちゃんでした。
その赤ちゃんも、もう50歳を過ぎているのです。

とても貴重なフィルムでした。

あの頃の学生運動は、学生たちはバリケードを組んで、そこに籠城していました。
キャンパスはどこも立て看だらけでした。
私が通っていた大学も、大学側がロックアウトという形で、学生たちを締め出しました。
授業は当然ありませんでした。

その頃のことは、もう半世紀も経ってしまい、細かいところは覚えていません。
印象的だったのは、私の通っていた大学では、学生がバリケードを組んで、ある社会学者の研究資料(漫画研究の第一人者だった)である漫画を、2階の研究室の窓から投げ捨てたということは、よく覚えています。
学問のための学問、ということを否定したかったのでしょうか。

その後、私は東京大学にある某研究所で働くことになったのですが、そこでは教授会との対立が色濃くあり、教授たちは研究所内には入ることができませんでした。
東大全共闘代表の山本義隆氏の姿は、通勤の途中に見かけていました。
彼はその後、予備校の講師になり、物理学者として行動されているようですが、全共闘のことについては、語られていないそうです。

映画とは直接、関係のない話になってしまったかもしれません。
でも、実際にその時代を生きてきて、体験してきた者としては、気になった映画でした。

さて時代は流れ、今はコロナウィルスの感染拡大防止ということで、日本中の多くの学校は閉鎖されています。
小学校も中学校も高校、大学も閉鎖されていて、授業はオンラインでしているところも多いようです。
先日、うちの近くにある都立高校を通り過ぎましたが、誰も姿は見えませんでした。

このような学校に行けない状態が長く続いて良いわけはありません。
でも、戦争中も子供たちは長い間、学校で勉強はできなかっただろうと思います。
今も形は変わっても、一種の戦争であるのでしょう。

半世紀前の出来事、そして現在の状況、いろいろと見てきました。
あと50年経ったら、今の時代のことは、どのように評価されるのでしょうか。
もちろん、その時は私はこの世にはいないので、何とも分かりませんが。

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「一日一句」

休業中無人の校舎八重桜


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