2021年6月30日水曜日

明治大学リバティアカデミー 富岡製糸場の歴史を紐解く

明治大学リバティアカデミーには、今まで何回か参加してきました。これはシニア向けオープンカレッジです。

私は明治大学の卒業生でもないし、関係者でもないのですが、私の住んでいる市が明治大学と協定を結んでいるので、市報にこのオープンカレッジの情報が載っているのです。

今回はオンライン講義に参加してみました。

タイトルは、「富岡製糸場最後の民間オーナー 近代日本の製糸業の歴史を紐解く」でした。

講演者は明治大学の卒業生で、現在、片倉工業という会社の取締役社長をされている佐野公哉さんでした。

1時間半ほどの長丁場の講演、お疲れさまでした。

研究者とか学者でもない、企業人のお話でしたが、とてもわかりやすい内容で、木訥とした話しぶりに好感が持てました。社長の講演に対して、社内ではいろいろと準備に当たった人もいると思いますが、会社のPR、養蚕業についての話、明治以降の日本の歴史をうまく噛み合わせたお話でした。

工業の近代化について、企業を発展させるためには、さまざまな努力と工夫が大切だということは、明治時代から培われていました。

たとえば新しい機械を取り入れて、労働者の労力を軽減させたり、遺伝学に基づいて蚕の改良を行っていたそうです。

まさに日本の近代化の見本のようでした。

そして片倉工業が、富岡製糸場と縁があったのです。

富岡製糸場は明治5年に作られた官営の工場でしたが、その次には三井が買い取り、その後、昭和14年(1939年)に片倉工業が買い取り、2005年まで長期に渡って工場を継続させてきました。

富岡製糸場を他に売却したり、貸与したり、取り壊しすることなく、丁寧に保存に努めました。

それは日本の近代化の原動力となった製糸場を残すことが、なにより重要であると、片倉工業は考えたからでしょう。

そのことが世界文化遺産に選ばれた理由にもなっていました。

富岡製糸場については、今、NHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場している尾高惇忠が工場長を努めていました。彼は渋沢栄一の親戚もあるので、渋沢もこの工場に関わった人です。

私は、以前、植松三十里さんの「繭と絆」という小説でそのことを読んだことがあります。

その時のブログです。https://toshiko72.blogspot.com/2016/10/blog-post_21.html?m=1

そして日本は世界一の絹の生産国となりますが、戦後はナイロンの登場により、その生産高は激減します。

それでも片倉工業は工場を閉鎖することなく、企業努力により、経営を多角的に転換してきました。

その一つが不動産業だそうです。

全国にあった工場をビルにしたり、さいたま副都心などの大掛かりなまちづくりをしてきたそうです。

この会社は、もともと働いている人を大切に扱うという方針があったそうで、社員のための福祉施設などを先駆けて作り、現在でもその精神が引き継がれているそうです。

お話の中で、片倉工業のあった岡谷市の「鶴峰公園」はツツジの名所だそうです。会社の初代社長がここに小学校を設立して、従業員を学ばせた地だそうです。日本一のツツジの名所だそうで、私もいつか行ってみたいと思いました。

なかなか面白い講義でした。

写真は「富岡製糸場」より拝借しました。

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