2021年11月30日火曜日

戸籍を辿る旅《東京市京橋区》

親が亡くなると、残された者は、いろいろな手続をしなくてはならないのですが、その一つに、その親の幼少期から死に至るまでの戸籍を辿るという作業があります。

これは、もしその親が、若い頃、どこかで子供を産んでいて、つまり異兄弟姉妹がいるとなると、面倒なことになるので、そういう人はいないということを証明するために、昔の戸籍を辿って集めるわけです。

私は、約20年ほど前に父が亡くなった時にも、この作業をしました。

その作業のおまけとして、父が生まれ育った土地は、現在は台東区にある大名時計博物館の隣の家だったということが分かりました。

その家は戦災で焼けてしまい、当時の様子は残っていませんが、父や父の家族がそこに住んでいたということが分かり、そんなことから台東区には親しみを感じているのです。

さて、母の場合は、私が子供の頃から聞いていた話は「新富町で育った」というので、中央区の生まれだと思っていたのです。

有楽町線・新富町駅から直結している東京都中央区役所に行ってきました。

ところが戸籍の出生地には、新富町という文字はありませんでした。ただし、2歳年上の姉は新富町すぐ近くの八丁堀で出生してます。                                                                                                                                                                                                                     母の出生地は「東京府荏原郡平塚村」と書いてありました。今の品川区戸越あたりでしょうか?

その理由を私なりに想像してみました。

それは母が生まれる3ヶ月ほど前の大正12年9月1日、関東大震災が起こり、たぶん、中央区に住んでいた母の家は被災して、戸越に疎開したのではないか、という考えです。そのことを知っている人は、今はもうみんな亡くなっているので、確かめることはできませんが。

私のこの考えは、中央区役所の戸籍係の人の説明が裏打ちしてくれました。


(外壁工事中の中央区役所)

つまり大正12年9月に発生した関東大震災のため、中央区(当時は京橋区)あたりは壊滅的な被害にあい、戸籍などの書類も焼失してしまったので、昭和になってから再製したという話でした。

その後、土地の名前が変更されたり、区の名前が変わったり、戦後に日本戸籍が改正されたり、というさまざまな歴史が残ったのでした。

母の戸籍(改製原戸籍)には、それらの事実が手書き文字で書かれていました。手書きなので私には読めない部分もあります。それでも明治以降の、ある家族の歴史を辿ることができました。

私は昔の家父長的家族や、男尊女卑の思想には賛成しませんが、日本のお役所がきちんと記録を残してくれたので、母や母の前の世代の人達が生きてきた足取りが分かりました。


(中央区役所の手前、元築地川にある三吉橋。
Y型アーチが珍しい橋)

話はそれますが、母が幼い頃過ごしていた地域には、築地川というのが流れていました。

現在は、その堀がそのまま高速道路になっています。

母はかつて、「私が育った家は、高速道路になってしまった」と話していました。

築地川の歴史をたどる研究をしている人のブログを見つけたので、またの機会に、その川を辿り、母が暮らしていた場所を確かめてみたいと思ったのでした。

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「一日一句」

橋に立ち 冬暖かし 母想う


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