2026年6月10日水曜日

井草川を歩いてみた(その1)

今年は杉並区内の川を中心にあちこち歩いています。神田川や多摩川などの大きな川は分かりやすいので、あまり準備もせずに、橋巡りはスムーズに終わってしまいます。その点、あまり目立たない暗渠巡りは、ちょっと下準備が必要ですが、終わってみると充実感でいっぱいになります。

今回の井草川もそんな感じでした。

井草川は名前だけは知っていましたが、井草と井荻の区別がつかず、なんとなく田舎っぽい(失礼)ところだと思っていました。ところが井草川は始点も面白い場所にあるし、西武新宿線を渡ったり、環状八号線も近くに走り、終点は妙正寺川というところで、楽しいところでした。

この川の周辺には旧石器時代から人が住んでいたという記録があるそうです。

スタートは「切通し口」という名前のところでした。ここは青梅街道からほんの少し奥まったところにあり、現在は公園のようになっていました。


奥まで歩いて行くと、森のイメージのような道が続きました。


これはかつての川を模して作ったのでしょうか。


そして道なりに歩くと、都立杉並工科高等学校になりました。


ここの近くの案内板を見ると、こんなことが書かれていました。


「井草遺跡は上井草4丁目を中心に広がり、井草川流域の台地上に位置している、旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡です。
 昭和15(1940)年、初めての発掘調査が行われました。この時、後に地名を冠し、「井草式土器」と命名された縄文土器群や石斧(せきふ)が発見されました。この土器群は関東ローム層(赤土)と上層(黒土)との境目付近で発見され、当時は最古の土器として注目されました。
 井草式土器は、口縁部が外に反った丸底の深鉢土器です。寄った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押しつけた「撚糸文(よりいともん)」を、土器の縁から全面に付けるのが大きな特徴です。
 このような特徴を持つ井草式土器は、縄文時代早期前半(約9,000年前)を代表する土器型式として広く知られるようになりました。 平成30年 杉並区教育委員会」

しばらく歩くと三谷(さんや)公園になりました。


この公園は形がL字になっていました。係の方が、清掃をしたり、設備を点検していました。遊具などもいろいろありました。お散歩にもちょうどよいところだと思います。


三谷公園の中の遊歩道をしばらく歩くと、「道灌橋」というところに辿り着きました。やはり井草川が流れていたのでしょう。


かの太田道灌と関係があるのでしょうね。道灌がこの付近に陣を敷いたという伝説があるそうです。
この公園には可愛いリスの彫刻がありました。桃園川緑道にあった動物のモニュメントとも似ていました。


こんな遊具もあったので、小さな子供は喜ぶでしょうね。


しばらく遊歩道を歩きました。


次に見えたのは「上瀬戸公園」です。


こちらは金太郎さんの車止め。


近くには「瀬戸原上橋」の跡がありました。井草川に架かっていたのですね。杉並区はこのように昔の橋をちゃんと保存しているのが、素敵だと思います。


「旧井草川」と書かれた親柱も見つけました。


道路を渡って、また遊歩道が続きます。紫陽花がきれいでした。


上井草向山公園です。


ちょっとした高台に立っていました。向山とでも呼ばれていたのかもしれません。


「四の宮中橋」の跡です。昭和36年と書かれているようでした。


「四の宮森公園」


井荻駅の近くですが、緑が多いところでした。

井草川の看板がありました。


「足下の遊歩道は、昔は井草川と呼ばれる川の流路でした。井草川は上井草4丁目付近を谷頭とし、流路の北限となる井草4丁目の矢頭公園付近まで北東へ向かい、そこから東南へと流れを変え、清水3丁目で妙正寺川に注いでいました。水源から妙正寺川との合流地点まで約3.5キロの小河川でしたが、地域の生活を支える河川でもありました。

 宝永4年(1707)、下井草村名主半兵衛らの尽力により、千川上水(用水)を分水して青梅街道添いに用水が開削されました。その水を谷頭口から取り入れた井草川は田方用水として積極的に利用され、明治期まで両岸には水田が広がっていました。
 
 上の写真は昭和30年代の様子です。井草川は今に至るまで、子供達の格好の遊び場となっていました。このような井草川ですが、周辺の宅地化に伴い、暗渠化が進み、昭和56年(1981)にはすべての流路が暗渠となりました。

そして「井草川は生活の舞台となって、地域に恵みをもたらす川として多くの人々に受けつげられてきました。台地に刻まれた井草川の流れは、地域に刻んだ歴史とともに、現在は公園や遊歩道として親しまれています」

ここから西武線の北側に渡りたかったのですが、残念ながら行き止まり。ぐるっと大回りして歩くことにしました。


西武新宿線の踏切です。ここを渡って、また井草川歩きは続きます。


後半に続きます。


2026年6月7日日曜日

江戸城の天守台に気象台があった話

今回のフィールド・ワークは、気象学が専門の教授による、気象観測地変遷の歴史を探るテーマでした。

かつては徳川将軍家のお城であった江戸城の本丸に、気象台があり、ここで風速等を測っていたとは信じられないかもしれませんが、今回はその歴史を眺めてきました。

まず最初に、竹橋近くで桜の標準木を見学。現在は靖国神社内にありますが、それができる前はこちらで観測していました。


以前は、桜以外にも梅、紅葉、椿、タンポポ、ツツジ、藤、萩、紫陽花、百日紅、ススキ、イチョウ、楓も観察していました。


ここから少し歩いたところにあるお堀端には、「震災イチョウ」の木がありました。関東大震災の時に、生き残ったイチョウの木です。


この木のすぐ近くには、和気清麻呂の銅像も立っています。
こちらは以前に訪れたときの写真です。


さて、明治8年(1875)に、「東京気象台」ができました。その場所は、現在、ホテルオークラがある松平大和守のお屋敷でした。毎日3回、お雇い外国人が観測したそうです。

その後、お屋敷はホテルオークラになったので、あちこち移転先を探したところ、地盤が強固で見晴らしが良く、近くに鉄道がないという理由で、皇居内に移転することになりました。

皇居はかつての江戸城があったところです。

こちらが天守台。


天守台の上まで登ると、観光目当ての外国人で超満員でした。

この場所に、明治14年(1881)から42年間にわたって、気象台があったのです。

高さも気象観測にはちょうどよく(約29メートル)、周囲に遮るものがないので、風速や風向、気温を測るには最適でした。

それにしてもお城だったところで気象観測をするというのは、どのような理由だったのでしょう。

それは明治維新後、欧米に対して科学技術で遅れをとっていたので、近代国家体制を整えるためには、気象台が必要だったのです。

江戸城が皇居になったことで、結果的に都市の開発から守られて、緑の環境を保持することができたわけですね。

その後、1923年の関東大震災後には竹橋に移転。

さらに1964年(昭和39)には千代田区大手町に移転。この場所は、現在は取り壊し中です。

そして現在は2014年(平成26)から、北の丸公園で気象観測が行われています。

気象庁はあちこち移転してきた歴史があったのでした。

その場所の標高や周囲の環境によって、気象データ(気温など)が微妙に変化してしまうので、普通の家の引越とは違い、科学的にはなかなか大変なこだと思いました。

なおこのコースは、2025年1月にも見学しています。ほぼ同じコースを歩きました。
その時のブログはこちら▼



2026年6月1日月曜日

阿佐ヶ谷かいわい暗渠散歩 2

前回▼は、阿佐ヶ谷駅の東側の暗渠を歩きましたが、今度はもう少し北東側に行ってみました。結局、最終的には阿佐ヶ谷の北側を通って荻窪まで歩いてしまいましたが。

阿佐ヶ谷は暗渠好きにはたまらない場所だと確信しました。

ただ、もうちょっと昔の時代に歩いていたら、もっと面白かっただろうと残念な気持ちも湧きました。それでも他の地域に比べたら、暗渠の醍醐味はまだ残っている地域です。

まずは駅から中央線の北側へ。この辺りは河北病院の大規模工事が行われているので道が塞がれていて、行きたい場所まではちょっと遠回りになりました。

まずは以前も訪問した弁天社へ。

そこからぐるぐる歩いて、北東地域を探検しました。

このあたりは、嬉しくなるほど、暗渠続きでした。


狭い道が続きます。




かつては用水だったようなところが、歩いても歩いても見つかりました。

こちらは前にも通った「玉の湯」です。お風呂屋さんも営業してますが、こちらは隣接するコインランドリー。道路際に立った石の門柱が見事でした。いつの時代のものでしょうね。


こちらはメインの銭湯です。

この先にも、車止めがずっと続きました。


こちらの建物は、Googleマップでは緑に塗られていて何か分からなかったのですが、東京朝鮮第九初級学校でした。日本の小学校にあたるところなのでしょうか?


学校の脇道を通ると、阿佐ヶ谷中央公園に到着。ここでちょっと一休み。


朝早かったせいか、誰もいなくて、のんびりできました。


公園の敷地はこんな形をしていました。水路の流れと関係がありそうでした。


さてここからどうしようかと思案しましたが、もう少し暗渠巡りを続けました。

この先はちょっと道が広がってきました。家も新しいようでした。


こぎれいな家が続いていました。


この後は、かつての銭湯だったところが続きました。
こちらは中杉通りに面していたコインランドリーです。
大型洗濯機や乾燥機がたくさん並んでいました。


こちらは松山通りにあったコインランドリー。お洒落な感じですね。以前は「○○湯」だったと思われます。


この後も暗渠続きです。




歩いても歩いても、車止めがたくさん並んでいました。
あまり北へ行くと帰りが困るので、西の天沼方面へ曲がりました。
こちらは前回も通った慈恩寺です。


その近くに、大きな石碑がありました。
杉並区制記念碑のようでした。


他にもいろいろな石物がありました。


この一角は石碑コーナーのようなところでした。


この辺りから、緑道らしくなってきました。


この付近で庭の手入れをしていた女性(私よりちょっと年上でしょうか)と立ち話をして、昔のお話を伺うことができました。この方のご主人は、生まれてからずっとこの地域にお住まいだったので、昭和の昔話も話してくださいました。当時は桃園川は暗渠ではなかったので、ここに落ちてしまった少年がいたそうです。
今では笑い話ですが当時はびっくりしたでしょうね。そして昭和40年頃に蓋がされたとか。

こんなお話ができるのも、暗渠巡りの楽しみの一つです。

その後、ちょっと足を延ばして熊野神社に行ってみることにしましたが、神社の森は見えているのに、入口が分からず、ぐるぐると歩き廻ってしまいました。するとチラシをポスティングしていた女性が道順を教えてくれて、助けてくれました。


神社の鳥居のところで、また先ほどのチラシ配りの女性と遭遇。きっと変な人だと思われたことでしょう。

この日はいろいろな方に助けていただきました。

この先も、暗渠が続きました。

ゴミ置き場となった暗渠。


かなりお洒落な暗渠。


珍しく「桃園」の名前がついたアパートがありました。


ここまで来れば、郷土資料館はもうすぐです。


もえぎ公園。ここは何度も通過しました。


そして結局、郷土博物館まで歩きました。弁天沼です。若者がギターの練習をしていました。


資料館では学芸員さんとお話をすることができて、ラッキーでした。

阿佐ヶ谷周辺は相沢堀の跡がたくさん残っているところでした。このあたりの田圃で取れたお米は、良質なお米だったとか。であと1回、荻窪の図書館の方まで歩いてみようかと思います。