2020年9月4日金曜日

藤沢周平 「一茶」

藤沢周平の小説は今まで読んだことがありませんでした。

亡くなった父は、藤沢周平の小説をよく読んでいたようですけれど、私はあまり興味がありませんでした。

たまたま図書館で、藤沢周平が書いた一茶の生涯というこの小説を手にしました。

一茶といえば、子供や動物にも優しい目を持った俳句を作る人、というイメージがありますが、詳しいことはあまり知らなかったので、読んでみることにしました。

すると、それまでの一茶のほのぼのとしたイメージは、すっかりかき消されました。


一茶は生涯に2万句もの俳句を作ったと言われますが、なんだかひどい人生を送った人だったのでした。

宝暦13年(1763年)に生まれ、 文政10年(1828年)に亡くなっています。

松尾芭蕉は1644年に生まれ、1694年に亡くなっているようですから、だいぶ時代が違いますね。

一茶(本名 弥太郎)は信濃の田舎に生まれ、3歳で実母が亡くなり、その後は継母に育てられますが、この継母とは折り合いが悪く、それが嫌で江戸に奉公に出ます。しかし一茶はどこでも使いものにならず、中年になるまで、家もお金もお嫁さんも持たずに過ごした人でした。

江戸で俳諧師に出会い、俳句の世界に入りますが、それは定職ではありません。あちこちを旅して、そこでお金持ちや俳句の先輩のところで居候をしてすごす生活をしていたようです。各地で「江戸から来た俳諧師」ということで受け取る授業料のような収入で過ごしていましが、かなり貧乏だったようです。

この時代には、多くの俳句を作る人や派閥があったようですが、一茶はその中でうまく泳いでいくことができなかったのか、当時はそれほど高い評価はされていない様子でした。

江戸と各地を旅していたので、故郷の畑を耕すこともなかったのに、「田舎にある土地は弥太郎も半分は相続する権利がある」という亡き父親の遺言を元に、弟や義母とは遺産相続で大もめになりました。ずるい方法でなんとか家財を得て、少しはホッとしたようです。

そして50歳を過ぎて、ようやくお嫁さんが見つかりますが、むさくるしい中年オヤジのところによくお嫁さんが来たものです。

初めてのお嫁さんとは3人の子供に恵まれますが、その後、妻子が亡くなってからも、次々と若いお嫁さんを見つけてもらっては、晩年は老いらくの性にいそしんでいた様子でした。

そして結局、中風になって亡くなってしまいます。

読んでいて、なんとも辛い人生を送った人だっただろうと、良い印象は持ちませんでした。それでも俳句という世界があったからこそ、生きていけたのかもしれません。

実は作者の藤沢周平自身も、山形の田舎から出てきて、業界紙の記者などをしながら生活をしていたそうです。俳句も作っていたそうですが、ようやく作家として認められたのは、かなり年が経ってからのことでした。

そういう面では一茶に共感を持っていたのかもしれませんが、私はあまりこの本は好きになれませんでした。

継母やお嫁さんたちの描き方が、いかにもモテナイ男目線の言葉で綴られていて、女性の性だけを求めていたような男のように描かれていたのは、残念です。

一茶は、芭蕉、与謝野蕪村と合わせて、「江戸時代の三大俳人」と呼ばれているそうですが、それは後世の人が作り上げたものかもしれません。

この小説は、リリーフランキー主演で映画化されたこともあるそうです。

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「一日一句」

今回は小林一茶の句をいくつか上げておきます。

  これがまあ終のすみかか雪五尺

  すずめの子そこのけそこのけお馬が通る

  めでたさや中ぐらいなりおらが春

  やせがえる負けるな一茶これにあり

  我と来て遊べや親のない雀

  



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