先日、日本橋の高島屋近くにある地図専門店に行きました。
その後は恒例の川歩きでした。
といっても今回の川は、今は川ではなく、かつて川だったところです。
このようなルートを歩きました。
そこは現在は高速道路(首都高速 都心環状線)になっていて、川には見えません。それでもちゃんと橋は残っているのです。
橋の上にある小さな公園から下を覗くと、こんなふうに高速道路が走っているのが見えますが、そこは川だったのですね。
この高速道路は東京オリンピックの前に作られたので、およそもう60年位経っているのでしょうか。
今回は日本橋三丁目さくら通り近くにある新場橋から、中央区役所の近くの三吉橋まで歩きました。
こちらがさくら通りの標識です。
すると目の前に高速道路の都心環状線が走っているところになります。
それがかつての楓川なのです。
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なぜその道(かつての川)を歩いたかというと、私の母が小さい頃に過ごしただろうと、予想される場所を見つけるためでした。
母は去年亡くなりましたが、その後の相続手続きのため、父が亡くなった時の本籍を頼りに、東京都中央区役所に出向きました。
そして母の戸籍を確認したところ、本籍地はもともとは「東京市京橋区岡崎町」と書かれていました。
京橋区という区は、現在の東京23区にはありません。
戸籍には訂正線があり、中央区西八丁堀となっていました。
岡崎町は昭和6年に西八丁堀になったそうです。
それで西八丁堀というところを探しましたが、こちらも現在はそのような町名はないのでした。
昭和44年に消滅して、現在はそのあたりは単に八丁堀という住所になっているのでした。
とにかく戸籍は古くて、なにしろ明治生まれの祖父母の代から繋がっているし、手書きなので読みづらいのです。
それで私は住所で探すよりも、母が生前に口にしていた「私が昔住んでいたところは、高速道路になってしまった」という言葉と、よく聞いていた「新富町」という町名を頼りにして、かつて母が住んでいた場所を探してみようと思ったのです。
母の姉たちも亡くなっていますし、当時の様子を知る人は誰もいません。
また西八丁堀というところには、母は小学校入学前の頃まで住んでしか住んでいないような話でしたので、あまり手がかりがないのです。
その後、女学校のころに港区高輪に引越したようなので、西八丁堀のことは本人もあまり覚えていないようでした。
それでもとにかく川のあるところに住んでいたらしいので、それをたよりに探検してみたのです。
前置きが長くなりましたが、そういう理由で、かつての楓川を歩いてみました。
こちらは最初に出会った橋、新場橋。
反対側の柱は全体が見えました。
この項、続きます。
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亡き母の ルーツ訪ねて 春の道
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