2022年4月21日木曜日

日本橋から銀座まで 高速道路下の旧楓川を歩く 2

前日のブログ▼の続きです。

この日は、日本橋高島屋から昭和通りを超え、旧楓川の新場橋をスタートして、三吉橋まで歩きました。

その日、通過した橋は8つでした。

まずは新場橋。ここは首都高速道路の最初あるいは最後に地下に潜る場所の橋です。


お次は久安橋です。「きゅうあんばし」と読みます。
久安というのは、茶坊主の名前だというようです。
かなり広い橋でした。


このあたりはオフィス街でした。会社勤めの若い男女が颯爽と歩いていました。この日は暖かかったので、ワイシャツの袖をまくって歩く姿が、かっこよく見えました。

SB(香辛料の会社)のビルもあったと思います。

そんなオフィス街で、橋の周囲をウロウロとしているおばさんは、ちょっと違和感があったでしょうか。

そういえば、オフィス街にはこんな牛さんもいましたよ。


お次は宝橋。


この橋のフェンスから、下に走る高速道路を眺めたところです。銀座という矢印が見えますね。


小さい公園がありました。楓川宝橋公園と書かれていましたが、子供が遊ぶと言うよりも、ちょととタバコを吸って休憩するような場所でした。


お地蔵さんもいましたね。
今から60年ほど前の夏、子供が楓川に落ちて亡くなったことがあり、それを供養するために作られたそうです。


公園の草むらから、下を走る高速道路を覗いてみました。
かつての川は、どれほどの川幅だったかわかりませんが、かなり広げたのではないでしょうか。

次は松幡橋。まつはたばしです。

江戸時代の町名「松屋町」と、「因幡町」の両方から一つずつとって、松幡橋と名付けられたとか。


このあたりで「西八丁堀児童遊園」という小さな広場を見かけました。(ちょっと場所の記憶が怪しいのですが)地理的には、都営地下鉄宝町駅の近くだと思います。

「西八丁堀」という単語にびっくりしました。というのも現在は西八丁堀という地名はなく、母が育ったころ、ちょうど小学生の頃に西八丁堀に改名された町名のはずです。

ということは、私の想像が当たっているかわかりませんが、母が子供の頃、この公園のあった場所で遊んだかもしれません。そう思うと、この公園に急に親しみが湧いてきました。

その次は弾正橋。立派な橋でした。


弾正という名前のついた橋や坂、場所はあちこちで見かけますが、これは弾正というのは人の名前ではなく、位の名前なのです。それで近くに◯◯弾正という地位の人のお屋敷などがあったときには、弾正の名前がつくので、多く見かけるのです。
こちらは江戸の寛永年間に、島田弾正という方のお屋敷が近くにあったからだそうです。


公園も整備され、スペースも十分にあり、ちょっとした憩いの場、という感じのところでした。

小さなツツジも咲き始めていました。

周囲には立派なオフィスがありましたが、こちらは不動産会社のビル。さすがに頑丈そうでしたね。

このあたりになると、かつて川だったところと、人が通れる道路が離れているので、道路を歩いたり、写真を写すために橋に行ったりと、移動にかなり時間がかかりました。

おまけに信号がある場所まで遠回りをしなければならないこともあり、橋の写真を撮る、というのは単純に見えて、結構時間を要するものなのです。

ちょうど昼休み時間になり、お店に行く人やテイクアウトを調達する人で、けっこう道路は賑わっていました。

次は新金橋。
このあたりからちょっと町の様子が変わってきました。商店も増えてきて、なんとなく下町っぽい雰囲気になりました。

次は新富橋。

五重塔が、橋のたもとにありました。

母や伯母が「しんとみちょうの家」とよく話していたことは、子供心に覚えています。当時は「しんとみちょう」というのはどういう字を書くのかも分かりませんでした。

最後は三吉橋。


正面のビルは現在の中央区役所です。


三吉橋のいわれが書かれています。このあたりは築地川と楓川が交差していて、橋が三叉のようになっているのです。


三角形の橋の姿がうまく写せなくて、残念ですが、広いスペースがあり、橋には見えないですね。

この橋は、旧楓川と、築地川が三角に交差する場所です。それで橋もトライアングルのような形で作られています。

橋のすぐ際に、中央区役所があります。

母の戸籍を取る時にお世話になったところです。

窓口の人がとても親切で、母は関東大震災直後に生まれたのですが、それ以前の書類などは全部焼失してしまい、大正13年頃も混乱していたことなどを、教えてくれました。

ということで、今回の高速道路下の川にかかった橋巡りは一旦、この三吉橋で終わりにします。

この先には祝橋、万年橋などが続き、東銀座となります。そのあたりは新橋演舞場に行くときによく通るところです。

また改めて歩いてみたいと思います。

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さすがにお腹が空いたので、銀座方面に歩き、キットカットのお店があったので、入ってみました。


お店の前に書いてあった黒板メニューがおいそうでした。

中はガラガラで誰も人がいなくて、おまけに5月の連休後には閉店するのだとか。ちょっと残念ですね。


銀座の町も変わっていきますね。

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関東大震災が発生した翌年の正月に、疎開先の品川区荏原で生まれた母が、その後、数年間だけ住んでいた、今はなき東京市京橋区岡崎町。

自分の足で確かめることができて嬉しく思いました。

おまけにかつての楓川の橋とも出会えて、ラッキーでした。

歩いた場所は、前回のブログでご確認いただけます。

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「一日一句」

若緑や 昔の川を 思い出す


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