先月の末に出かけた江戸東京博物館▼。
これは市民カレッジ「美術館建築を楽しむ」の最終回の実踏でした。
この時は企画展はお休み中で、常設展しかやっていませんでしたが、建物の概要を建築家の立場から話していただいたりの時間が多かったので、展示のほうはあまりゆっくりとは見学できませんでした。
それでも江戸の町並みや文化を知るゾーン▼では、いろいろ体験学習もできて楽しめました。
今回は大きな日本橋を挟んで右側にある東京ゾーンを、ちょっとだけご紹介します。
こちらは銀座4丁目の角に建っていた「朝野新聞社」の実物大復元模型です。
今の「和光」のあるところですね。
この新聞社は「ちょうや」新聞といって、「朝日新聞社」とは無関係のものです。
どちらかというと今のミニコミ新聞、反体制新聞を発行していたそうですが、建物はかっこいいですよね。
こんな西洋風の建物が、明治初期に作られたとは驚きでした。
たまたま女の子が当時の二輪車に乗ったところです。
こちらは浅草の町の様子が分かるエリアです。
浅草に建てられた建物の模型です。
1890年(明治23年)に建てられた「凌雲閣」」です。
12階立てだったので、正式名よりも「十二階」の愛称で呼ばれていたそうです。
この建物には、なんとエレベーターも設置されていたそうで、驚きでした。
ただしあまりきちんと作動しなかったとか。
ここにも、ミニチュアのお人形さんがいました。
浅草の十二階周辺には多くの娯楽施設が立ち並んでいました。
芝居小屋、寄席、見世物小屋など・・・。
この「電気館」というのは映画館なのだそうです。なんとなく電気屋さんをイメージしてしまいますが。
建物はユニークというか、けばけばしいというか、屋根には「自由の女神」まで立っていました。
今から約100年前、1914年(大正3年)にイタリア映画「アントニーとクレオパトラ」が特別上映されたときの様子です。当時は、演目が変わるたびに、絵看板だけでなく建物の装飾まで変えてたそうです。
そんな浅草の賑わいも、関東大震災ですべて崩壊してしまいました。
関東大震災の話は、当時、下町に住んでいた父方の祖母からはよく聞かされていました。
大勢の人が、隅田川に飛び込んで、川が人で埋まってしまったほどだったそうです。
私の亡くなった父はその時は3歳くらいだったはずですが、母はまだ母親のお腹の中にいて、そして翌年の1月に生まれました。
母方の祖母はそのころは銀座に住んでいたと思うのですが、お腹に赤ちゃんを抱え、どんなに怖い思いをしたことだろうと、思いました。
関東大震災の後、昭和の時代になって、こちらの「円タク」が東京でも走り出したそうです。
どこでも1円(今のお金で2000円くらい?)で走ったそうです。
昭和時代の展示物は写真には写しませんでしたが、やはり戦後の焼け野原の状況を写したものは悲惨なものでした。今の東京の姿は思い浮かびませんね。
その後の東京オリンピック(1964年)あたり以降の高度成長時代は、私にとっては自分の人生と同じ時代なので、「ああ、これ知っている」「こんなものもあったわね」という懐かしさが先立ちました。
ただし、実物を知っている人間にとってと、今の子供たちにとっての受け取り方はきっとずいぶん違うものだろうなと思いました。
博物館というところは、選ぶ基準によって、いろんな印象を与えるものですから、そのあたりはきちんと検証してもらいたいですね。
また大昔(紀元前○万年前?)から現在までの東京の地層の模型もありましたが、東京のかなりの部分は海に埋もれていました。
地盤の強度が分かる模型もありましたが、埋め立て地である湾岸地域にたくさんの高層建物が立っていて大丈夫なのだろうかと、ふと不安がよぎりました。
こちらは出口近くにあった江戸のお花見の絵。隅田川でしょうか?
なんとのどかな様子なのでしょう。
お土産はきれいな水色のあられ模様の手拭いにしました。
江戸から明治、大正、昭和とタイムスリップして、平成の世の中に戻ってきました。
駆け足で巡ってきた江戸東京博物館の常設展でしたが、今回は引率者や受講者のみなさんとご一緒でしたので、いつもとは違って、それなりに楽しめました。
また市民カレッジ担当者の方にもお礼申し上げます。
その1 建物編▼
その2 日本橋編▼
その3 江戸の文化編▼
その4 東京ゾーン編▼
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この日の装いは、あまりの猛暑のため、せっかく江戸の文化を学ぶ機会だったのに、普通の洋服で出かけました。
ちょっともったいなかったな。
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