2020年7月30日木曜日

武生というところ

武生と聞いて、その位置関係や特徴が分かる人は、悪いけれどあまり多くはないのでしょうか。
武生は「たけふ」と読みます。
かつては、福井県中央部にあり、県内では福井市に次ぐ2番目の市だったそうです。


ただし武生市は、2005年に越前市に合併したという経過があります。
その当時は、人口が約7万人だったそうです。

その武生ですが、以前は、越前の国の国府であり、「越前府中」とも呼ばれたいました。

「武生」という名前の由来については、「生」が植物群落を意味することから、竹やぶの意味である「竹生」からきているとも言われているそうです。
草深いところだったのでしょうか。

さて、どうして急に武生のことを書いてみたかというと、ここは紫式部と縁があるところなのです。
彼女のお父さんの藤原為時さんという人が、かつて越前の受領(今でいう知事のような役職)をしていて、彼女も父親に付き添って、若い頃、一時は越前に住んでいたことがあるのです。

ちなみに為時さんは和歌や漢文に造詣が深く、文化人だったのですが、どうもあまり世渡りはうまくなかった人だったようです。
花山天皇の時代には、文部省のようなところでよい地位まで登っていたのですが、藤原一族の事件にまきぞいを食って、無職になってしまい、10年間は浪人生活を送った人です。
その後、一条天皇に申し文を作成して、時の権力者である道長の手引きにより、越前国守になれたという話が伝わっています。
紫式部のちょっと根暗な性格は、この父親の血筋を引いているような気がします。

ということで武生にある紫式部公園には、寝殿造りの中に、紫式部の銅像が立っているということを知り、びっくりしました。
金ぴかの十二単姿です。


こちらは彼の地で、紫式部が作ったという和歌です。
「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」
雪が深いところなのでしょうか。

武生の人々にとっては、紫式部や源氏物語は身近な存在なのかもしれませんね。

ちなみにウィキペディアで調べてみたら、武生生まれの有名人は意外と多いのです。
いわさきちひろ
加古里子
俵万智
などなど。

またこの地方の名産である越前和紙ですが、かなり昔から作られていて、その後、鎌倉時代にはかなり普及していたそうです。

「源氏物語」の当時は、まだ紙が高価でしたが、紫式部は越前の和紙を使用していたかもしれませんね。

「武生の観光スポット」▼というところを見ると、なかなか良さそうなところです。

コロナが終息したら、是非、足を向けてみたいところです。

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「一日一句」
(季語無し)

行ってみたいコロナ明けたら越前へ


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