いまだに中央線の国分寺と国立、立川の位置関係がよく分かりません。
落ち着いて考えてみれば、国分寺と立川の間にあるのが「国立」だと分かるのですが、慌てていると間違えやすいのです。
先日も国分寺市北町というところに用事があり、そこは立川から東にある駅からバスに乗って行く場所でした。それで、あまり考えずに「国分寺駅」で下車してしまいました。
駅前のロータリーをうろうろしましたが、どうも様子がおかしい。もう一度地図を見るとそれは「国分寺駅」ではなく、「国立駅」から乗らなくてはいけないのでした。
というわけで仕方なく中央線をまた西に戻り、国立駅のバス乗り場を探しました。
目的地が「国分寺市」だったので、つい国分寺駅からバスに乗ると思い込んでしまったのです。
バスの停留所はすぐに見つかりましたが、時刻表を見るとバスは1時間に1回か2回くらいしか来ないのです。それで仕方なくタクシーを利用することにしました。
タクシーの運転手さんによると、そのルートは平日の朝夕は通学客が多いので、1時間に数回、バスが来るようですが、その日は日曜だったため、殆どバスは来ない時間帯だというのでした。
私はタクシーなどめったに使わないのですが、シルバーパスなら無料の所、1500円払ってしまいました。
というドタバタはありましたが、国分寺市北町3丁目というところにある「妙法寺」というお寺さんに着きました。
目的は「川崎・伊奈両代官謝恩塔」を見ることでした。国分寺市の指定文化財になっています。
その塔は1799年に建てられましたが、大正12年の関東大震災で倒れ、その後、昭和26年になって再建されたそうです。
お寺の入口近くに建てられていたので、すぐに見つかりました。
とても立派な塔でしたよ。
「江戸時代の享保7年(1722)に始まった武蔵野の新田開発は、凶作などにより開発が進まず農民は窮乏し、餓死者が続出していました。元文4年(1739)武蔵野新田世話役となった押立村(府中市)の名主川崎平右衛門は救助の食料、養料金(凶作に備えて各家から穀類三升、のちに5升を集め売却し、その代金を商人に貸付け、利息を農民に配当するという制度)、肥料、種の支給や用水、井戸の工事などを行い、新田の安定をはかりました。
川崎平右衛門は寛保3年(1743)に支配勘定格となり寛延2年(1749)に美濃国(岐阜県)へ支配替えになった後、宝暦4年(1754)代官となりました。
平右衛門の後にこの地の代官となった伊奈半左衛門も、平右衛門の政策を継ぎ、さらに養料金制度を推し進めました。
このため武蔵野の開発は大いに進展し、その功績を記念するため、寛政11年(1799)榎戸新田名主源蔵らの主唱によって武蔵野新田八十数ヶ村の感謝の結晶として建立されたものです」
このお寺は五日市街道沿いに建っていますが、道を歩いていると、昔の田んぼや畑のあとのような土地がまだあちこちに残っているところでした。
これからまだまだ平右衛門さんの足跡を辿ります。
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