先月、日比谷に行った時のブログ▼で少しご紹介しましたが、もう終了してしまった「長久保赤水展」ですが、ちょっと覚え書きを残しておきます。
会場は市政会館でした。
ここは東京都の歴史的建造物に指定されているレンガ造りのレトロな建物で、日比谷公会堂に隣接しています。
正式な名称は公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所で、かつては時事通信社の本拠地だったそうですが、今は法律事務所や弁護士事務所のようなオフィスがたくさんが入っていました。
重厚な扉を開けて入りました。
こういうお堅いところは、普段はあまりご縁がないので、私のようなおばさんが入ってもよいのかと、キョロキョロしてしまいました。
地下の「内閣官房 領土・主権展示館」というところに行きました。
なぜこの展覧会が領土問題と関係しているかというと、この長久保赤水が作成した江戸時代の地図には、「竹島」が記載されていて、それを根拠にして「この島は古くから日本の領土だった」ということの説明になる、というのが理由のようです。
私自身は、領土問題にはそれほど関心がない、というか、あまり政治的な問題に首を突っ込む気持ちはなくて、純粋に、江戸時代の地理学者の足跡をたどってみたかったので、ちょっと異空間に来たような感じがしました。
長久保赤水(1717年~1801年)は、現在の茨城県高萩市というところで生まれました。水戸藩の農家の倅でした。
ちょうど昨年が生誕300年です。
こちらは自画像だそうです。
赤水は子どもの頃に両親などを相次いで亡くし、親戚のところで過ごしますが、勉学に励み、そして儒学者になりました。そして50歳を過ぎたころから地理学者として活躍しました。
彼のすごいところは、伊能忠敬(1745~1818)の「大日本沿海與地図」が完成する42年も前に赤水図を作ったことです。
それも伊能忠敬は全国を測量して作成しましたが、赤水はいろいろな人からの情報を収集して地図を作製したことです。
伊能忠敬も、赤水が測量しないで「坐ら(いながら)にして、地図を作製したのは非常に感心する」と述べていたそうで、彼自身も全国を測量した時は、赤水図を持参していたということでした。
これらの地図を見ても、現在の日本の形とほぼ同じですね。
素晴らしいものです。
彼の地図には経緯度が記入されていますが、これは彼が障子の桟を眺めていた時に気づいて作ったのだそうです。アイディアマンでもあったのですね。
また伊能図は沿岸部分は正確に描かれていますが、内陸は空白でした。
それに比べて赤水の地図は、内陸には山や川、道路なども描かれていました。
日本にある約6000か所の名所・旧跡・お城・温泉なども記載されているそうです。
つまりこの地図は、江戸時代の旅人のトラベルマップとなっていたのです。
また彼の地図は何回も修正をして版を重ねたそうです。
それだけ正確な地図を作成したかったのだろうと思います。
また中国(清)の地図も作成していました。
もちろん、中国に行ったことはありませんが、情報網を使って、清の地図を作製したのでした。
そんな赤水ですが、水戸藩の殿様の「侍講」となり、殿様に講義をするほどになりました。
またシーボルト事件で、シーボルトが日本から持ち出した地図は、伊能図ではなくて、こちらの赤水図であったということです。
赤水は1801年に85歳で亡くなりますが、没後も多くの人たちに愛用されました。
幕末に活躍した人たちがあちこち移動できたのは、彼の地図を頼りにしていたおかげといえるでしょう。
今回の展覧会を見て思ったことは、学校の教科書には名前が載らなくても、偉人がいたということです。
私は地図を眺めているのがとても好きで、また自分が地図上のどこにいるかをきっちりと分かっていたいと思うタイプです。
赤水がいたからこそ、現代の正確な地図も生まれたのだろうと思います。
今ではグーグルマップがあればどこにでも気軽に移動できますが、江戸時代にそのような地図の礎を作った人がいる、ということはとても感動しました。
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