先日、渋谷の國學院博物館に行った時、その帰り道にびっくりしたことがありました。
そこはちょっとレトロな建物で、こういう看板が出ていました。
なんと「塙保己一史料館」だったのです。
そして建物の入口にはこういう銅像がありました。
えー、塙保己一?
この方のことは日本史の授業で習ったことがあります。たしか盲目の大学者だったはず。「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」という書物を書いた人、ということくらいしか知りませんでした。
実は、この建物を見つけたのは、私がちょっと道を間違えてしまった結果なのです。
國學院博物館を出て、近くの氷川神社に寄り、その後はまっすぐに渋谷川に戻るはずが、ちょっとズレた道に行ってしまった結果からでした。
こちらは氷川神社。右手の大きなビルは國學院大學です。
偶然でしたが、こういう出会いがあるから、川歩きは楽しいのですよね。
ということで、その塙保己一のことをちょっと調べてみました。
彼は延享3年(1746)に現在の本庄市で、百姓の息子として生まれました。
亡くなったのは文政4年(1821)、76歳のときです。
子供の頃からあまり身体が丈夫ではなく、5歳で目が悪くなり、7歳で完全に失明したそうです。
その後、15歳で江戸に出て、国学、和歌、漢詩、医学、法律などを学び、37歳で盲人の最高位である「検校」になりました。
そして脅威の暗記力によって、大文献「群書類従」を40年間かかって編纂したそうです。
この書物は1000種類以上の書物からなるそうで、日本の貴重な書物が散逸しないように、版木(桜材)で作られているのだとか。
驚いたことに、あの有名なヘレン・ケラーは塙保己一のことをとても尊敬していて、「恩人」と呼んでいたそうです。
彼女は文字を覚える時、手のひらに文字を書いていましたが、このやり方は実は塙保己一がしていたのと同じやり方でした。
そして昭和12年(1937)に彼女が来日した時、こちらを訪問したそうです。
アメリカ人でも彼のことを知っていた、というのはびっくりしました。
そして、かの渋沢栄一も、同じ埼玉県人として塙保己一の精神を真似していたそうです。盲人のための団体である温故学会の設立にも一役かったそうです。
そんな塙保己一の史料館が渋谷にあったとは!
本当に意外な出会いでした。
もう少し、塙保己一のことを知りたいと思い、図書館に塙保己一関係の書籍を予約してみたところです。
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「一日一句」
迷い道 花に誘われ 良き出会い
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