着物友達Kさんのガイドによる稲城散策は、2月末に楽しく終了しました。
南多摩駅近くにある分量樋から、南に流れる大堀、東に流れる押立堀、新堀を歩いて来ました。
ただし、実は心残りがありました。
それは大丸用水の始点をちゃんと確認できなかったことです。そこで3月の初め、もう一度、探索することにしました。
大丸用水の始点は「一の山下」と呼ばれる場所にあり、そこで堰止められた多摩川の水は、横幅二間(3.6メートル)の用水樋から取り入れられました。
ネット上や、こちらの稲城市教育委員会の「文化財ノート」というチラシにも大丸用水取入口というのがあるのですが、現在はそこには行けないようになっていました。
令和元年の台風以後、改修工事が行われているようなのです。そして堰は今後は閉鎖されるようでした。
ちょっと残念ですね。
ここでもう一度、大丸用水のおさらいをしておきます。
大丸用水は、多摩川を水源として、稲城市や川崎市多摩区を流れる灌漑用の水路で、終点は川崎市多摩区の登戸です。
このあたりには、二ヶ領用水や府中用水もありますが、大丸用水も江戸時代に治水、利水対策として作られたようです。
1611年(慶長16年)、1690年(元禄3年)に作られた、という記事もありました。
そして1727年(享保12年)には、二ヶ領用水の修繕をした田中休愚がやはりこの大丸用水を改修していました。
大丸用水には9つの本流があり、200もの支流があるそうで、合計するとなんと全長は70キロにも達するそうです。
長いですね!
大丸用水は、9つの村の組合により、用水の管理などを行い、水争いを防いでいました。
ただし当初は農地のために利用されていましたが、戦後は特に宅地化が進み、また農業従事者の高齢化により農地は少なくなり、現在は親水公園となっています。
大丸用水の始点を探しに、私が歩いたルートはこのあたりです。
JR武蔵野線の南多摩駅から川崎街道を西に進み、多摩川に出ようとしました。
出発地点の南多摩駅です。
駅の南側にある医王寺。
稲城市立病院を過ぎて、どんどん西に進みましたが、車が通るばかりで歩いている人は皆無でした。
水再生センターとか、汚泥処理工場とか、土砂置き場のようなところばかりで、人家はまるでありませんでした。
一般人にはあまり関係なさそうな施設でした。
なんだか大変なところに入り込んでしまったな、という感想でしたが、引き返すのももったいない。
普通のおばさんが歩くには、ちょっとふさわしくない場所でした。
少し歩くと「南多摩スポーツ広場」という看板がありました。
ここは野球はサッカーができるようになっていました。ここに来場する人はほどんど子供やその家族でしたが、みな、車や自転車で来場するような場所でした。
我が子の活躍を見守る親たち。
この向こう側に、多摩川が流れていて、大丸用水の取水口があるはずなのですが、見ることはできませんでした。
巨大なソーラーシステムが広がっていました。
なんというところに来てしまったのでしょう。
残念でしたね。
スポーツ広場の反対側にはとても広い公園のような場所がありました。
どうも米軍の施設のようでした。
「Tama Hills Recreation Center」と書かれていて、「多摩サービス補助施設」というところだと思いますが、立ち入り禁止の看板が立っていました。
(広い道路の反対側から写したので、ぼやけています。)
米軍施設の隣は「大丸公園」という市民公園でした。
このように水路が作られていました。
ここは大丸用水の続きだろうと思います。
実はこの水路のある公園は、かつては「火工廠多摩火薬製造所」だったのです。
戦時下は陸軍工廠として作られた工場でした。
それまでは純粋な農村として静かな生活を送っていた稲城村の人々にとっては、どんなに驚いたことでしょう。
最初は大正12年に陸軍造兵廠を作りました。その後、昭和6年の満州事変のころから炸薬の使用量が増加してきて、昭和13年に多摩火薬製造所を作ったそうです。
工場の規模は昭和14年頃には従業員883名でしたが、終戦時には2085人だったそうです。それだけ多くの人が、稲城の工場で働いていたのですね。
その後、終戦後の昭和20年9月にはアメリカ軍が駐留を始め、翌年にはアメリカ軍に接収されました。
現在はアメリカ空軍のリクリエーション施設として利用されています。
今でも敷地内には戦争の跡が残っているとのことです。
この施設の隣には、稲城市立病院があり、そこを過ぎるとごく普通の地域になります。
こちらは現在の平和な大丸公園です。
親子連れが楽しそうにボールを追いかけていました。
その後、私はこちらの水路を辿りました。
そして新大丸というところまで歩き、またJR南武線の南多磨駅まで戻ることにしました。
駅近くにはまた大河原さんの作品が立っていました。
一見、平和に見える稲城市内ですが、80年ほど前まではここに火薬工場があったなんて、信じられませんでした。
今回の用水巡りでは、用水の始発地点は確認できませんでしたが、昔の火薬工場、現在の米軍施設に出会うことになりました。
かつての穏やかな農村は、現在も戦争の足跡が残っているのでした。
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「一日一句」
水ぬるみ 町の変化に 歴史あり
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