ひめゆりの塔は、沖縄南部の糸満市にあるのですが、その前に平和祈念公園▼に行き、平和の礎を見学しました。
たくさんの花が捧げられていました。
「平和の礎」は1995年に建てられたそうです。
沖縄戦では24万人の犠牲者があったそうです。
とくに最後の激戦場となった南部地域では、多くの人が犠牲になりました。
沖縄県民の4人に一人が命を奪われたという話でした。
平和記念公園の内部は沖縄風の造りになっていて、屋根にはシーサーもいました。
各県別に犠牲者の氏名が刻み込まれています。
沖縄出身者の氏名が一番多くありました。
後ろに見えるのは資料館です。
こちらは摩文仁の丘。
ここからたくさんの日本人が飛び込み、青い海が赤い血で染まってしまったほど、だということでした。
この青く美しい海が、かつては戦場だったとは思えませんでした。
その後、「ひめゆりの塔」のある「ひめゆり平和祈念資料館」▼へ。
「ひめゆり」というのは植物のひめゆりのことではありません。
沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校のそれぞれの校友誌の名前が「おとひめ」と「白百合」でした。
その両校が併置されることによって校友誌もひとつになり、両方の名前の一部をとって「姫百合」となりました。
「ひめゆり」とひらがなで表記されるようになったのは、戦後のことだそうです。
この二つの学校は、戦争により、次第に軍事化されていきます。
1945年3月23日、米軍は沖縄上陸作戦を開始。
学校からも240名の女子学生が戦場へ動員され、看護要員として陸軍病院に配置されました。
4月1日には、米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸。
多くの日本兵が死傷して病院に運び込まれ、女子学生たちは負傷兵の看護や死体埋葬などの仕事をすることになりました。
5月には女子学生たちは日本軍と共に陸軍病院を出て、本当南端部に向かいました。
そして米軍が間近に迫った6月18日夜、解散命令が出され、女子学生たちは絶望して、戦場を逃げまどい、殺されたり、自決したりして、100余名が死亡しました。
ここには沖縄戦で亡くなった女子学生と、教師の227名の遺影が掲げられています。
それぞれの氏名、特徴などがひとりひとり紹介されていて、短い人生を送ったうら若い女性として身近に感じられ、涙を誘います。
若い女性としての喜びも楽しみも味わうことなく、亡くなっていった人たちの思いを、強く受け止めなければいけませんね。
1945年8月15日の終戦後も、沖縄はアメリカ郡による統治となり、パスポートがなければ海を渡ることはできませんでした。
その後、沖縄の基地は朝鮮戦争やベトナム戦争などの発進基地、補給基地として、米軍が自由に使用できるところでした。
1972年5月15日、沖縄は27年ぶりに日本に復帰して「新生沖縄県」が発足しました。
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これからの沖縄はどうなるのでしょう。
宜野湾市長選挙では現職の市長が当選して、日本政府は国の方針が認められたとして、「世界一危険な基地」と言われる普天間飛行場の移転方針を進めるようですが、基地がそんなに簡単に移設できるとは思えません。
普天間→辺野古という選択は、沖縄の基地負担を軽減させる解決になるのでしょうか。
(那覇飛行場近くの海軍基地)
日本の国土の0.6パーセントしか占めない小さな沖縄県に、米軍基地の75パーセントが集中しているそうです。
(普天間の米軍基地)
また沖縄振興開発政策として、巨額の資金が投入されていますが、問題はあると思います。
私が以前、仕事で出かけた沖縄の大学院も、振興策の一つだと思いますが、山を切り開き、たくさんの施設を作っていましたが、それがどれほど沖縄県民に良い影響を与えているかは、疑問でした。
こちらは、2011年に訪問した時の、大学院の工事の様子です。
今はもうこの建物は完成しているのでしょうか。
基地産業や、観光業だけに頼ることなく、学問や研究の場としての沖縄対策だと思いますが、巨額の税金を投入しただけの結果が分かるようにしていただきたいですね。
(沖縄中部の米軍施設)
琉球、そして沖縄の歴史的・地理的条件を考えると、今後、どのような立場で行けばよいのか、そしてその決定権は誰にあるのか、は難しいことだろうと思いました。
沖縄旅行で沖縄のいろいろな面に接するにつけ、独立して存続できない小さな島が、独自に生きていく困難を感じてしまいました。
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こちらは沖縄中部にある古宇利(こうり)大橋。
白浜の美しいところでした。
2015年12月28日から31日までの3泊4日の沖縄旅行記、これにて終了させていただきます。
お次は奈良・京都の一泊旅行が待っています。
2 件のコメント:
私も、その昔沖縄を訪れたとき、ひめゆりの塔の慰霊碑へ行きました。
戦中、終戦直後の生々しい話を語り部から伺って、とても衝撃を受けたのを覚えています。観光気分で行くと後ろめたさを感じるほどの、重い過去の記憶ですね。
今も基地問題などで揺れる沖縄の現実を、私たち本土に住む者は他人事とは言えないまでも、ちょっと距離を置いて見ているのかもしれません。かといって、何ができるのか、難しい問題ですね。
マサさん、そうですね、よその人間がその土地のことをとやかく言えないとは思いますが、
日本政府ももう少し沖縄県民の長年の歴史などをちゃんと学んだ方が良いのではと思いますね。
琉球時代にしても、中国や薩摩藩の属国のような立場だっただろうし、なかなか難しいところですね。
沖縄にリゾート気分で出かけるのも良いですが、歴史を知るのも必要だと思いました。
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